灸エビデンス・ライブラリ
Moxibustion & Gastroenterology I — 全18章

灸の臨床|消化器① 病態と適応

「お腹の調子が悪い」の下に、生活の質の問題と腸を壊す病気が同居している。
効果の話に入る前に、名前と物差しを決める。

第1版 2026年8月 機能性ディスペプシア / 過敏性腸症候群 / 便秘・下痢 / 炎症性腸疾患 / 体性自律神経反射

3分で要点だけ

本文で示した報告値のうち、この教材の骨格になる3点。

  1. 同じ熱が、部位で逆に働くマウスの胃運動は足三里の43℃で振幅+13.3±3.5%〜+27.2±4.3%、中脘では抑制。41℃はどちらも無効
  2. 機能性ディスペプシアの26.1%は過敏性腸症候群の基準も満たす上部と下部を別の主訴として扱うと、4人に1人を取りこぼす
  3. CDAIには内視鏡が入っていない担当医の全般評価を再現するよう18変数から8変数を選んで作られた指数である

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序章

症状の名前を決めるまで、灸の話はできない

この巻は灸の効果を扱わない。扱うのは、目の前の消化器症状が何であるか、それは何で測られているのか、そしてどこからは自分の手を離すべきかである。効果量は第2巻『灸の臨床|消化器② エビデンスと臨床判断』にまとめた。消化器の訴えは、同じ「お腹の調子が悪い」という言葉の下に、生活の質の問題と、腸に穴を開けていく病気が同居している。まずそこを分ける。

この部を読むと消化器の訴えを、主観指標・複合臨床指標・客観指標の三層に分けて扱えるようになる。

00本書の読み方とエビデンスの階層

本書は臨床編の1冊目である。第I部から第IV部で、機能性ディスペプシア過敏性腸症候群・慢性便秘・炎症性腸疾患の病態と標準治療を確認する。第V部で、灸の熱がどの経路で消化管に届きうるのかを基礎生理の側から見る。効果の話は一切しない。

0-1 二巻構成のどこを読んでいるのか

消化器領域の灸は、機能性ディスペプシア・過敏性腸症候群・便秘と下痢・炎症性腸疾患という四つの主題に分かれる。それぞれについて「どの程度の根拠があるか」を知りたい読者は、本書ではなく第2巻へ進んでほしい。本書が答えるのは、その前段にある問いである。その訴えは機能性か器質性か。標準治療は何か。何を指標にすれば効果を判定できるのか。いつ医療機関へ回すか。

この巻の役割

効果が示されている介入であっても、適応を誤れば有害になる。逆に、効果が不明な介入でも、適応と安全性の判断が正確なら臨床の場に置く余地はある。本書は後者の判断材料を作る巻である。

0-2 エビデンスの階層

本書の記述には、疫学調査から動物実験まで性質の違う情報が混在する。混在させたまま並べると、読者は強さを取り違える。そこで全巻共通の階層を先に置く。

表 0-1 本書で用いるエビデンスの階層
階層デザイン典型的な弱点
A盲検化されたRCT/Cochraneレビュー本数が少ない。偽灸の妥当性
B健常者を対象とした実験(客観指標)n が小さい。短時間の観察
C動物実験(機序の解明)刺激条件がヒト臨床と異なる
D非盲検RCT/単群前後比較出版バイアスが大きい
E症例報告・実技者の実測報告(非査読)査読なし。ただし物理測定値は有用

0-3 消化器領域に固有の、もう一つの軸

消化器では、階層とは別に「何を測ったか」という軸が決定的に効く。同じ患者を、症状の点数で測るか、内視鏡で測るかで、結論が正反対になることがあるからである。本書は指標を三つに分けて扱う。

主観指標
患者が答える症状票。腹痛スケール、GSRS、Nepean Dyspepsia Index など。プラセボ反応をそのまま拾う。
複合臨床指標
症状に検査値や医師の評価を混ぜて計算する指数。CDAIクローン病)や Mayo スコア(潰瘍性大腸炎)が代表である。指数によって、内視鏡所見を含むものと含まないものがある。
客観指標
内視鏡所見、組織像、血液・便中の炎症マーカー、胃排出能大腸通過時間。患者の期待では動きにくい。

第2巻で見るとおり、灸の消化器試験の大半は主観指標と複合臨床指標だけで結論を出している。その理由を理解するには、これらの指標が何をどう測っているのかを先に知らなければならない。本書の第13章はそのために置かれている。

0-4 この巻を貫く三つの問い

  1. この訴えは、腸に病気がないことを前提にしてよいのか。
  2. この訴えは、何を測れば良くなったと言えるのか。
  3. 灸の熱は、そもそも消化管の運動に届くと言えるのか。届くとして、どちら向きに働くのか。

三つめは、消化器の灸を語るときにほぼ必ず前提として置かれ、そしてほぼ必ず一方向にしか語られない問いである。第V部で正面から扱う。答えは、読者の期待とは違う場所にある。

第I部

上部消化管——胃はどう働き、どこで壊れるか

「胃がもたれる」という訴えの背後には、貯める・砕く・送り出すという三つの別々の機能がある。この部では胃の生理を確認したうえで、機能性ディスペプシアの診断要件と病態、そして見落としてはならない疾患を順に押さえる。

この部を読むと「胃がもたれる」を、貯める・砕く・送り出すのどれの話かに分けて語れるようになる。

01胃の三つの仕事

胃は一つの袋ではない。上部と下部で別の仕事をしており、どちらが壊れるかで症状が変わる。灸が胃に影響しうるかを論じる前に、何が動けば「胃が動いた」ことになるのかを決めておく必要がある。

1-1 貯める——適応性弛緩

食物が入ると、胃の上部(胃底部)は弛緩して容積を広げる。Goyal らのレビューは、この充満期に胃が空腹時の容積の10〜15倍まで拡張し、しかも胃内圧の有意な上昇を伴わないと記述している[4]。この弛緩を適応性弛緩(accommodation)と呼ぶ。迷走神経を介した反射であり、胃底部への迷走神経遮断はこの反応を損なう。

1-2 砕く——前庭部のトリチュレーション

胃の下部(前庭部)は反復的な収縮で固形物をすりつぶす。Goyal らは、消化可能な固形物は2〜3 mm未満の粒子に粉砕されて初めて幽門を通過すると述べている[4]。前庭部と幽門は、機能的には粉砕器とふるいの組み合わせとして働く。

1-3 送り出す——胃排出

胃排出は胃底部・胃体部・前庭部・幽門・十二指腸の協調の結果である。Goyal らは正常な排出速度をおよそ1〜4 kcal/分と記述し、標準的な指標として内容物の50%が排出されるまでの時間(t½)を挙げている[4]

測定法の注意

胃排出能の測定にはいくつかの方法がある。Goyal らはシンチグラフィを「ゴールドスタンダード」とし、標準的手順として低脂肪の卵白食を用い 0・1・2・4時間の残存率を測ること、4時間後に30%を超えて残っていれば排出遅延とすることを記している[4]。¹³C呼気試験は間接的な測定だが、肝腎機能に問題がなければシンチグラフィとよく相関するとされる[4]本書と第2巻を通じて、これらの手法で灸の効果を測った試験には到達できなかった。この空白は第2巻の最終章で扱う。

臨床への翻訳

「胃の動きが良くなる」という言葉は、貯める・砕く・送り出すのどれを指すのかを述べていない。適応性弛緩が改善したのか、前庭部の収縮が強まったのか、排出が速くなったのかは、それぞれ別の測定を必要とする。しかも、この三つは同じ方向に動くとは限らない。前庭部の収縮が強まっても幽門が閉じていれば排出は速くならない。施術の効果を語るときは、どの機能の話なのかを特定できているかを自分に問う。

02機能性ディスペプシアの診断要件

機能性ディスペプシア(FD)は、症状の内容と時間配置で定義され、内視鏡で異常がないことを条件に含む。「胃が弱い」という表現とは別物であり、診断要件を知らないまま施術すると、効果の判定ができない。

2-1 Rome IV の要件

StatPearls は Rome IV における FD の診断を次のように整理している[1]以下の4症状のうち少なくとも1つが3か月以上持続し、発症が診断の6か月以上前であり、生活の質を損なっており、画像・内視鏡で構造的疾患がないこと。

  • 食後のもたれ感(postprandial fullness)
  • 心窩部痛(epigastric pain)
  • 心窩部灼熱感(epigastric burning)
  • 早期飽満感(early satiety)

2-2 二つの亜型

FD は症状の出方で二つに分けられる[1]

心窩部痛症候群(EPS)
灼熱感または痛みが週1回以上生じ、活動に支障をきたす程度である。食後の膨満・悪心・食事との関連が支持所見となる。
食後愁訴症候群(PDS)
食事に誘発される膨満感または早期飽満感が週3日以上あり、通常量の食事を終えられない。食欲低下・悪心・膨満を伴うことがある。

2-3 どれくらいいるのか

Rome Foundation の世界疫学調査は、26か国・54,127人を対象に Rome IV の基準で FD の有病率を調べ、7.2%(95%信頼区間 7.0〜7.4%、国別の範囲 2.2〜12.3%)と報告した[2]

表 2-1 Rome IV 機能性ディスペプシアの内訳(報告値)
項目備考
全体の有病率7.2%95%CI 7.0〜7.4%[2]
食後愁訴症候群(PDS)66.6%FD該当者に占める割合[2]
心窩部痛症候群(EPS)15.3%同上[2]
PDSとEPSの重複18.1%同上[2]
18〜35歳の有病率9.5%年齢とともに低下[2]
65歳超の有病率3.9%同上[2]
IBSの基準も満たす割合26.1%FD該当者中[2]

同調査では、女性の有病率が男性より有意に高かった[2]

臨床への翻訳

表 2-1 の最終行は実務的に重い。FD と診断される人の 26.1% は、同時に IBS の基準も満たす。つまり施術室で「胃ももたれるし、お腹も下る」と訴える患者は例外ではなく、4人に1人である。上部と下部を別々の主訴として扱うと、片方だけを追いかけることになる。問診では必ず両方を聞く。そして第2巻で見るように、灸の臨床試験はほぼ例外なくどちらか一方の患者だけを組み入れている。試験集団と目の前の患者が同じでないことを、この数字は示している。

03病態の三つの候補

FD の病態としては複数の異常が挙げられているが、どれも患者の一部にしか見られず、症状との対応も一様ではない。この章は、消化器領域で「機序」を語るときの限界を先に示す章である。

3-1 三つの異常と、その割合

Oshima は FD の病態生理を総説し、主要な三つの異常について次の割合を報告している[3]

表 3-1 機能性ディスペプシアで報告されている異常の頻度(報告値)
異常該当する患者の割合症状との関係
固形物の胃排出遅延約 30%排出速度と症状の型・重症度との相関は結論が出ていない[3]
適応性弛緩の障害最大 40%とくにPDSで多い[3]
胃拡張に対する知覚過敏約 37%症状の重症度と密接に関連する[3]

3-2 この表が意味していること

三つの割合を足しても100%にならない。重複もあれば、どれにも当てはまらない患者もいる。さらに重要なのは、最も頻度が高い異常(適応性弛緩の障害)と、最も症状に結びつく異常(知覚過敏)が一致していないことである。

胃排出遅延は FD の説明として最もよく引かれるが、Oshima は排出速度と症状の型・重症度との相関について「結論が出ていない(inconclusive)」と明記している[3]。一方、胃拡張への知覚過敏については「FD の症状の重症度と密接に結びついている」と述べている[3]

要点

FD において、「動きが悪いこと」よりも「感じ方が過敏であること」のほうが症状をよく説明する。これは第II部の過敏性腸症候群と共通する構図であり、消化器の機能性疾患を貫く原則である。

臨床への翻訳

この構図は、灸の効果を検討するうえで二つの帰結をもたらす。第一に、胃排出能を速めることが治療目標になるとは限らない。排出が遅いのは3割で、しかも症状との相関が確立していない。第二に、もし灸が症状を軽くするとしたら、その経路は運動よりも知覚の側にある可能性が高い。第V部で見る動物実験は運動を測っており、知覚を測っていない。この不一致は、機序の説明として動物データを持ち出すときに必ず言い添えるべき留保である。

3-3 その他に挙げられている要因

StatPearls は上記のほかに、粘膜バリアの障害、腸管に向かうリンパ球の変化、好酸球と肥満細胞の増加、Helicobacter pylori 感染、微生物叢の乱れを挙げている[1]。また、心理的ストレスが視床下部-下垂体-副腎系を活性化させ、内臓の感受性を高めることが記述されている[1]

04除外すべきもの——警告徴候と標準治療

FD は除外診断である。上部消化管の症状で最初に問うべきは「機能性か器質性か」であり、これは施術者が問診で一定程度まで絞り込める。この章は本書でもっとも実務的な章の一つである。

4-1 内視鏡が必要になる所見

StatPearls は、内視鏡を要する警告徴候として次を挙げている[1]

  • 意図しない体重減少
  • 嚥下困難・嚥下痛
  • 鉄欠乏性貧血
  • 持続する嘔吐
  • 触知できる腫瘤・リンパ節腫大
  • 上部消化管がんの家族歴
  • 60歳以上(この年齢では定期的な検査が推奨される)
臨床への翻訳

消化器領域で灸が起こしうる最大の有害事象は熱傷ではない。受診の遅れである。心窩部の症状が灸で多少軽くなることは、胃がんや潰瘍がないことの証明にはならない。むしろ、症状がわずかに緩和されることで受診の動機が失われるという経路で害が生じうる。この経路は有害事象として集計されないため、どの安全性レビューにも数字として現れない。内視鏡を一度も受けたことのない心窩部症状の患者には、灸を始める前に受診を促す。これは慎重さではなく、除外診断という FD の定義そのものから導かれる標準的な判断である。

4-2 標準治療の順序

StatPearls は FD の治療を次の順で記述している[1]

  1. H. pylori 陽性であれば除菌
  2. プロトンポンプ阻害薬またはH2受容体拮抗薬を4〜8週間
  3. 症状が持続する場合、三環系抗うつ薬または消化管運動改善薬

三段階目に抗うつ薬が現れることは、この疾患の性質を示している。用量は抑うつの治療量より低く、狙いは中枢での内臓感覚の処理の側にある。前章で見た「知覚過敏が症状をよく説明する」という所見と、治療の実際は整合している。

この巻での位置づけ

本書は治療の手引きではない。標準治療を列挙するのは、灸が何と比較されるべきかを決めるためである。第2巻で扱う臨床試験の多くは、灸を消化管運動改善薬と比較している。上の順序を知っていれば、その比較対象が標準治療の第一選択ではなく第三段階の薬であることが分かる。比較対象の位置を知らずに「薬より優れていた」を読むと、必ず読み違える。

第II部

下部消化管——過敏性腸症候群

過敏性腸症候群(IBS)は、腹痛と排便の変化が結びついていることで定義される。この部では大腸の運動と内臓求心路を確認したうえで、診断要件・亜型・病態・警告徴候を順に押さえる。内臓痛そのものの機序は既刊『灸と痛みの生理学②』が扱っており、本書では重複させない。

この部を読むと過敏性腸症候群を亜型で分け、腹痛が必須要件であることから考え始められるようになる。

05大腸の運動と、内臓を通る求心路

腸の状態は二種類の神経を通って中枢へ届き、二種類の神経を通って中枢から制御される。灸という体表への刺激が腸に届きうるとすれば、その経路はこの解剖の上にしかない。

5-1 消化管を支配する二つの系

迷走神経系
食道から横行結腸あたりまでを支配する副交感性の経路。求心線維と遠心線維の両方を含み、胃では適応性弛緩と運動の促進に関わる。反射中枢は延髄にある。
脊髄(内臓)神経系
交感神経幹と内臓神経を通る経路。腹腔神経節・上腸間膜神経節などを介する。求心線維は後根神経節を経て脊髄後角に入り、痛みの情報の主要な経路となる。

内田らは、鍼刺激が上部・下部消化管に及ぼす影響を総説し、基礎研究と臨床のあいだにある対応関係と乖離を論じている[13]。野口らは、内臓痛・消化器機能・消化器症状に対する鍼灸の効果について、唾液分泌・胃運動・胃酸分泌・小腸運動に関する基礎研究と臨床研究を横断的に整理し、胃電図の有用性についても総説している[14]本書が第V部で扱う「体性自律神経反射」という枠組みは、これらの総説が扱ってきた研究群の上に立っている。

用語の整理

体表への刺激が内臓の機能を変える反射を体性自律神経反射という。求心路は皮膚・筋の体性求心線維、遠心路は自律神経(迷走神経または交感神経)、反射中枢は脊髄または脳幹にある。この枠組みは、経絡の実在を前提としない。体表の刺激部位と内臓の応答のあいだに規則性があるという観察事実を、神経解剖の言葉で記述したものである。

5-2 大腸で起きていること

大腸の主な仕事は水分と電解質の吸収、および内容物の貯留と排出である。分節運動が内容物を混和し、大蠕動が内容物を遠位へ送る。便の形状は、内容物が大腸に滞在した時間をおおまかに反映する。滞在が長ければ水分が抜けて硬くなり、短ければ水分を含んだまま排出される。この対応関係が、次章で見る Bristol 便形状スケールを診断基準に組み込むことを可能にしている。

06過敏性腸症候群の診断要件と亜型

IBS は「お腹が弱い」ことではない。腹痛が排便と結びついていることが要件であり、腹痛がなければ IBS ではない。亜型の分類は便の形状の割合で決まり、治療も亜型で変わる。

6-1 Rome IV の要件

StatPearls は Rome IV の IBS 診断基準を次のように記述している[5]過去3か月にわたり平均して週1日以上、腹痛が反復して生じ、次の3項目のうち2項目以上を伴うこと。症状の発症は診断の6か月以上前であることを要する。

  1. 排便に関連する
  2. 排便回数の変化を伴う
  3. 便の形状(外観)の変化を伴う
要点

腹痛は必須要件である。腹痛を伴わない下痢や便秘は、Rome IV では IBS ではなく機能性下痢・機能性便秘に分類される。第2巻で扱う臨床試験の組み入れ基準を読むとき、この区別が守られているかどうかは試験の質の指標になる。

6-2 四つの亜型

亜型は Bristol 便形状スケール(BSFS)における硬便(タイプ1〜2)と軟便・水様便(タイプ6〜7)の割合で決まる[5]

表 6-1 Rome IV による IBS の亜型分類
亜型硬便(BSFS 1〜2)軟便・水様便(BSFS 6〜7)
IBS-C(便秘型)25%超25%未満
IBS-D(下痢型)25%未満25%超
IBS-M(混合型)25%超25%超
IBS-U(分類不能型)基準は満たすが上記のいずれにも当てはまらない

6-3 どれくらいいるのか

StatPearls は、米国における IBS の有病率を7〜16%、世界のプール推定値を11%としている[5]。女性と若年成人に多い[5]

臨床への翻訳

亜型を確認しないまま IBS の患者を扱うことはできない。第2巻で見るとおり、灸の臨床試験は圧倒的に IBS-D(下痢型)に偏っている。便秘型の患者に、下痢型で得られた試験結果を根拠として提示することはできない。問診では便形状を必ず尋ね、可能なら Bristol スケールの図を見せて患者に選ばせる。「便秘がち」という自己申告と、実際の便形状の記録は一致しないことがある。

07内臓知覚過敏と脳腸相関

IBS の中心的な病態は、腸が異常に動くことではなく、正常な範囲の刺激を痛みとして受け取ることにある。この構図は第3章で見た FD と同じである。

7-1 挙げられている機序

StatPearls は IBS の病態として次を列挙している[5]

内臓知覚過敏
腸管の受容器からの信号が増大することによる感受性の亢進。
脳腸相関の破綻
中枢神経系と腸管神経系のあいだの信号のやりとりの乱れ。
消化管運動異常
不規則な収縮または通過の遅延。
腸内細菌叢の乱れ
細菌叢の変化が IBS の亜型と関連づけられている。
食物不耐
患者の 20〜65% で報告されている[5]
感染後発症
消化管感染の数か月後に症状が始まることがある。
軽度の炎症と透過性の変化
粘膜の低度炎症と腸管透過性の亢進。
既刊への参照

内臓痛が体性痛とどう異なるか、関連痛がなぜ生じるか、内臓求心線維の性質はどうかについては、既刊『灸と痛みの生理学②』および『灸と痛みの生理学①』が扱っている。本書はその内容を繰り返さない。IBS を灸で扱おうとする読者は、本書より先にその2冊を読むほうが得るものが大きい。

7-2 標準治療

StatPearls は治療を生活・食事の調整と薬物療法、心理療法に分けて記述している[5]

  • 生活・食事:低FODMAP食、水溶性食物繊維(1日 25〜35 g)、運動、睡眠衛生
  • IBS-C:ポリエチレングリコール、ルビプロストン、リナクロチド、プレカナチド、テナパノル
  • IBS-D:低FODMAP食、ロペラミド、リファキシミン、エルクサドリン、アロセトロン、胆汁酸吸着薬
  • 全般:鎮痙薬(ジシクロミン、ヒヨスチアミン)、ペパーミントオイル、三環系抗うつ薬
  • 心理療法:認知行動療法、腸管指向性催眠療法
臨床への翻訳

最後の項目に注目する。認知行動療法と催眠療法が、標準治療の一覧に載っている。これは IBS が「気のせい」だという意味ではなく、中枢での処理に働きかける介入がこの疾患では実際に有効性を検証されてきた、という意味である。同時にこれは、プラセボ反応がきわめて大きい領域であることを示唆する。第2巻で見る灸の試験で、偽灸群の症状点数が大きく下がる現象は、この疾患の性質そのものから予測できる。

08IBSで見落としてはいけないもの

IBS も除外診断である。とくに炎症性腸疾患と大腸がんは、初期には IBS と区別のつかない訴え方をすることがある。この章の一覧は、施術者が問診で拾える範囲に限定してある。

8-1 警告徴候

StatPearls は IBS における red flag として次を挙げている[5]

  • 50歳以上での新規発症
  • 血便
  • 発熱・寝汗
  • 夜間の下痢
  • 意図しない体重減少
  • 症状のパターンが変わった
  • 最近の抗菌薬使用
  • 検査値の異常(貧血、CRP または便中カルプロテクチンの上昇)
  • 消化器疾患・がん・炎症性腸疾患・セリアック病の家族歴
読み方の注意

夜間の下痢が単独で挙げられていることには理由がある。機能性の腸症状は睡眠中に軽減することが多い一方、器質的な炎症は睡眠と無関係に続く。「夜中にトイレで起きるか」は、施術室で1問で聞ける鑑別の質問である。

臨床への翻訳

上の一覧のうち、便中カルプロテクチンは施術者が測れないが、「その検査を受けたことがあるか」は聞ける。炎症性腸疾患を除外する検査を一度も受けずに数年「過敏性腸症候群だと思っている」患者は珍しくない。灸を始めること自体は妨げないが、灸と受診を同時に進めるべき所見として扱う。第IV部で見るとおり、炎症性腸疾患は放置すると腸管そのものを不可逆に損なう疾患であり、症状の強さと炎症の強さは一致しない。

第III部

便秘と下痢——何を測っているのか

便秘と下痢は疾患名ではなく症状名である。この部では、慢性便秘の定義と、効果を判定するときに使われる四つの物差しを整理する。第2巻で灸の試験を読むとき、どの物差しで測ったかが結論を左右する。

この部を読むと便秘の効果を、回数・便形状・通過時間のどれで測っているかを見分けられるようになる。

09慢性便秘の定義

便秘は患者の自己申告と医学的定義がもっとも食い違う症状である。定義を共有しないまま「便秘が改善した」と述べても、何が起きたのかは伝わらない。

9-1 Rome IV 機能性便秘の要件

StatPearls は Rome IV の機能性便秘の基準を次のように記述している。6か月にわたり、以下の6項目のうち2項目以上を満たすこと[6]

  1. 自発排便が週3回未満
  2. 排便の 25% 超でいきみを要する
  3. 排便の 25% 以上で兎糞状または硬便
  4. 排便の 25% 以上で肛門直腸の閉塞感がある
  5. 排便の 25% 以上で残便感がある
  6. 排便の 25% 以上で用手的な補助を要する

さらに、下剤を用いない状態で軟便になることがまれであること、IBS の基準を満たさないことが条件となる[6]

要点

この6項目のうち、回数はたった1項目にすぎない。残り5項目は排便の質に関する項目である。「毎日出ているから便秘ではない」という判断は、この定義に照らすと誤りうる。

9-2 どれくらいいるのか

StatPearls は米国人口の約 15% が便秘に影響を受けており、世界では 12% が自己申告による便秘を報告していると記述している[6]。女性、高齢者に多く、65歳超では 30〜40% とされる[6]

9-3 三つの型

原発性(特発性)の慢性便秘は次の三つに分けられる[6]

通過時間正常型
大腸の通過時間は正常だが、便秘を自覚している。もっとも多い型である。
通過時間遅延型
大腸の内容物の移動そのものが遅い。
骨盤底機能障害(排便障害型)
直腸に便は到達しているが、排出の協調がとれない。

二次性の原因として、薬剤、食事、解剖学的異常、神経疾患、代謝・内分泌疾患が挙げられている[6]

臨床への翻訳

三つの型は、介入の当たりどころが違う。骨盤底機能障害に対して大腸の運動を促す介入を行っても、出口が閉じている以上は届かない。用手的な補助を要する、残便感が強い、いきんでも出ないという訴えが中心であれば、大腸の通過ではなく排出の協調の問題を疑い、専門的な評価(直腸肛門内圧検査・排便造影)が可能な医療機関を勧める。「便秘に効くツボ」という発想は、この三分類を通過していない。

9-4 警告徴候

StatPearls は便秘における red flag として、直腸出血、腹痛、嘔吐、体重減少、消化器悪性腫瘍の家族歴、排ガスができないことを挙げている[6]

10回数・便形状・通過時間

便秘の治療効果は四つの物差しのどれかで測られる。物差しごとに感度も意味も違う。第2巻で灸の試験を読むとき、この章の区別が読解の道具になる。

10-1 四つの物差し

表 10-1 便秘の臨床試験で用いられる主なアウトカム
指標何を測るか性質
排便回数週あたりの排便の数患者の記録。もっとも単純だが、質を反映しない
SBM/CSBM下剤の補助なしの自発排便(SBM)、うち残便感のないもの(CSBM)規制当局の試験で主要評価項目として用いられる
Bristol便形状スケール便の形状を1〜7で分類患者の記録。大腸滞在時間をおおまかに反映
大腸通過時間X線不透過マーカーの移動客観指標。患者の期待では動きにくい[6]

StatPearls は評価法として、大腸通過時間検査(X線不透過マーカーを用いて腸管通過の速度を評価する)、直腸肛門内圧検査、排便造影を挙げている[6]

臨床への翻訳

表 10-1 の上3行と最下行のあいだには、越えられない性質の差がある。上3行はすべて患者が記録するものであり、期待の影響を直接受ける。最下行だけが、体の外から測った量である。第2巻で見るように、灸の便秘試験で用いられているのは上3行だけである。大腸通過時間で灸を評価した試験には、今回の調査範囲で到達できなかった。したがって現時点で言えるのは「患者の記録がどう変わったか」までであり、「腸の動きが変わったか」ではない。

11下痢という訴えの分解

下痢は便の水分量が増えた状態を指す症状名であり、原因は感染から炎症、吸収不良、機能性まで広がる。施術室で扱ってよい下痢と、その日のうちに医療へつなぐべき下痢を分けることが、この章の目的である。

11-1 まず時間で分ける

下痢は持続期間で急性と慢性に分けるのが実際的である。急性の下痢の多くは感染性であり、自然に軽快する。施術の対象になるのは慢性の下痢であり、そこで問われるのは器質性か機能性かである。

11-2 機能性を前提にしてよいかの確認

第8章の警告徴候は、下痢を主訴とする患者にそのまま適用できる。とくに次の三つは、慢性下痢では優先度が高い。

  • 血便——潰瘍性大腸炎の主要な症状である(第12章)
  • 夜間の下痢——機能性では説明しにくい
  • 意図しない体重減少——吸収不良または炎症の持続を示唆する
要点

血便を「痔だと思う」と自己判断している患者は多い。痔核の出血と、炎症性腸疾患の血便・粘血便は、施術者が区別できるものではない。区別しようとせず、受診を勧める。

臨床への翻訳

慢性下痢の患者では、脱水と電解質の状態が背景にある。下痢が続いている患者に、発汗を伴うような強い温熱刺激を長時間加えることは、体液の状態を悪い方向に動かしうる。これはヒトの試験で定量されたものではなく、生理学的な妥当性からの注意である。本書はこの注意を、報告値ではなく推論として明示したうえで置く。灸の施術そのものより、施術時間と室温の管理の問題として扱うのが実際的である。

第IV部

炎症性腸疾患

ここまでの三つの部は、腸に構造的な異常がないことを前提とする疾患群を扱った。この部は前提が変わる。炎症性腸疾患は、腸そのものが壊れていく疾患であり、症状の強さと炎症の強さが一致しない。この部は、灸を選ばない判断のための部である。

この部を読むと炎症性腸疾患で灸を選ばない判断を、粘膜治癒という到達点から説明できるようになる。

12潰瘍性大腸炎とクローン病

炎症性腸疾患(IBD)は主に二つの疾患からなる。両者は炎症の深さと分布が違い、その違いが合併症と治療目標を規定する。

12-1 潰瘍性大腸炎

StatPearls は潰瘍性大腸炎(UC)を、大腸壁にびまん性の脆弱性と表層のびらんを生じる特発性の炎症性疾患と定義し、炎症が粘膜と粘膜下層に限局することを特徴として挙げている[7]。範囲は Montreal 分類で三つに分けられる[7]

E1
直腸炎
E2
左側大腸炎(遠位大腸炎)
E3
全大腸炎

主要な症状は切迫感を伴う血性下痢であり、腹痛、倦怠感、体重減少、発熱を伴う[7]。腸管外症状は患者の 10〜30% にみられ、関節症、ぶどう膜炎、壊疽性膿皮症などが含まれる[7]

12-2 クローン病

StatPearls はクローン病(CD)を、消化管のどの部位にも生じうる全層性(transmural)の炎症を特徴とする慢性炎症性腸疾患と定義している[8]。全層性の炎症は敷石像(cobblestone pattern)と、正常粘膜を挟んだ跳躍性病変(skip lesions)を生じ、線維性の瘢痕化を経て狭窄と、隣接臓器へ伸びる瘻孔をもたらす[8]。非乾酪性肉芽腫は患者の最大 33% に形成される[8]

表 12-1 潰瘍性大腸炎とクローン病の対比(報告値)
項目潰瘍性大腸炎[7]クローン病[8]
炎症の深さ粘膜・粘膜下層全層性
部位大腸に限局消化管のどの部位にも生じうる
分布直腸から連続跳躍性病変
代表的症状血性下痢・切迫感腹痛・下痢・体重減少
発症年齢のピーク15〜30歳/50〜70歳15〜30歳/40〜60歳
特徴的合併症中毒性巨大結腸症狭窄・瘻孔・膿瘍

12-3 頻度

StatPearls は UC の罹患率を年間 10万人あたり9〜20例、有病率を 10万人あたり156〜291例 としている[7]。CD については、北欧系およびユダヤ系の集団で罹患率がおよそ 10万人年あたり5例から12例超 と記述している[8]

日本の状況について、Yamazaki らは日米の健康保険請求データベースを用いて 2010〜2019年の UC の推移を比較し、次の値を報告している[11]

表 12-2 潰瘍性大腸炎の年齢調整済み有病率・罹患率の推移(報告値)
指標日本 2010年日本 2019年米国 2010年米国 2019年
有病率(10万人あたり)598158233
罹患率(10万人年あたり)0.612.731.932.5
数値の読み方

日本の有病率が10年で 5 から 98 へ、およそ20倍に増えている。これを「日本で潰瘍性大腸炎が20倍に増えた」と読んではならない。この研究が用いたのは JMDC という被用者保険のデータベースで、人口の約 10%・65歳未満をカバーする[11]。データベースの収載範囲と追跡年数の伸びが、有病率の見かけの上昇に寄与する。同じ表で米国の有病率が 158 から 233 と穏やかに動いているのは、比較対象の CCAE が65歳未満人口の約 46% をカバーしていることと無関係ではない[11]疫学の数値は、母集団の定義とデータ源を見ずに読めない。

12-4 合併症とがんのリスク

StatPearls は UC における中毒性巨大結腸症「最も多い死因」と記述している[7]。大腸がんのリスクは、罹病期間に応じて10年で 2%、20年で 8%、30年で 20〜30% と報告されている[7]。CD の合併症としては、狭窄、瘻孔、膿瘍、大腸がん、貧血、骨粗鬆症、凝固能亢進が挙げられている[8]

臨床への翻訳

この章の数値は、消化器領域の灸においてもっとも重要な臨床判断を支える。IBD は、症状が落ち着いていても炎症が続き、罹病期間に比例してがんのリスクが積み上がる疾患である。したがって「症状が軽くなったから通院をやめる」は、この疾患ではそれ自体が有害事象になりうる。IBD の患者に灸を行う場合、施術者が守るべき最低限は次の一点に集約される。主治医の治療と定期的な内視鏡評価を続けることを、施術のたびに前提として確認する。灸を治療の代替として位置づけることは、この疾患では許されない。

13疾患活動性は何で測られているか

IBD の臨床試験は、疾患活動性の指数で結果を報告する。この指数の中身を知らないと、第2巻で見る試験結果を正しく読めない。本書でもっとも技術的で、そしてもっとも読み方を変える章である。

13-1 CDAI——クローン病活動指数

Bao らは CDAI について「この指数は8つの因子からなり、各因子は重みづけ係数で調整したうえで合計される」と記述している[9]。同試験は組み入れ基準を「CDAI 値が 151 から 350 の範囲にある軽症または中等症のクローン病」と定め、「CDAI スコアが 150 未満であることが臨床的寛解を示す」としている[9]

13-2 CDAI は何を再現するように作られたのか

原著にあたると、この指数の性格が見える。Best らは 112 例・187 回の受診から 18 の予測変数を集め、「担当医が患者の状態をどう総合評価したかを予測する式」を重回帰で導き、それを数値的に簡略化して8変数にしたものが CDAI であると述べている[17]。閾値については「指数値 150 以下は静止期の疾患と関連し、それを超える値は活動性を示し、450 を超える値はきわめて重症の場合にみられる」と記述されている[17]

この指数の構造

ここが重要である。CDAI は、内視鏡所見や炎症の量を基準にして作られた指数ではない。担当医の全般的な評価を再現するように作られた指数である。したがって CDAI が下がったということは、第一義的には「医師が良くなったと判断する状態に近づいた」ことを意味する。
なお本書は、8因子の内訳を列挙しない。原著の全文に到達できず、各因子と重みづけ係数を一次資料で確認できなかったためである。二次的な記述には具体的な内訳が現れるが、本書はそれを採用しない。

13-3 Mayo スコア——潰瘍性大腸炎

Mayo スコアが CDAI と決定的に違うのは、内視鏡サブスコア(MES)を構成要素として内蔵している点である。Lee らは MES を「妥当性検証は経ていないものの、潰瘍性大腸炎の内視鏡的活動性の指標として最も広く用いられている」と記述し、MES が 0 であることを完全な粘膜治癒0〜1 であることをほぼ完全な粘膜治癒として扱っている[10]。臨床的寛解は Mayo スコア 0〜2、軽症は 3〜5 と記述されている[10]

なお、Mayo スコアの各サブスコアの配点についても、本書は原著(Schroeder ら 1987)に到達できなかったため列挙しない。本書が用いるのは、MES を内蔵しているという構造上の事実と、上に引いた閾値だけである。

13-4 粘膜治癒という到達点

IBD の治療目標は、この20年で「症状の消失」から「粘膜治癒」へ移ってきた。理由は第12章で見たとおりである。症状がなくても炎症が続けば、狭窄も、がんのリスクの蓄積も止まらない。Mayo スコアが内視鏡サブスコアを内蔵しているのは、この目標設定を指数の中に組み込むためである。

13-5 指標の階層

表 13-1 IBDの試験で用いられる指標と、それが動くために必要なもの
指標主な構成何が変われば動くか
CDAI8因子の重みつき合計(内視鏡を含まない医師の全般評価が近づく状態[17]
Mayo スコア内視鏡サブスコアを内蔵自覚と粘膜所見の両方[10]
CRP・便中カルプロテクチン血液・便の炎症マーカー全身または腸管の炎症量
内視鏡スコア(CDEIS・MES)粘膜の直接観察粘膜そのものの状態
臨床への翻訳

この表は、第2巻の第IV部を読むための鍵である。ある介入が CDAI を大きく下げながら、内視鏡スコアをまったく動かさないという事態は、原理的に起こりうる。CDAI には内視鏡が入っておらず、担当医の全般評価を再現するよう作られているのに対し、内視鏡スコアは粘膜そのものを見ているからである。そして第2巻で見るとおり、灸のクローン病試験で実際に起きたのはこの事態であった。この章を読んだ読者は、その結果を「矛盾」ではなく「指標の構造から予測できる帰結」として読めるはずである。

14標準治療と、鍼灸が置かれる場所

IBD の標準治療には確立した段階がある。灸を検討するなら、その段階のどこに置くのかを明示しなければならない。

14-1 潰瘍性大腸炎の治療段階

StatPearls は次の順序を記述している[7]

  1. 第一選択:サラゾスルファピリジンおよび 5-アミノサリチル酸製剤。寛解率はおよそ 50% と記述されている[7]
  2. 追加:糖質コルチコイド(経口または経直腸)
  3. 難治例:チオプリン系または生物学的製剤(インフリキシマブなどの抗TNF薬、ベドリズマブ)
  4. 根治:大腸全摘・回腸嚢肛門吻合術

14-2 クローン病の治療段階

軽症から中等症ではメサラジン、免疫調節薬(アザチオプリン、6-メルカプトプリン)、副腎皮質ステロイド。中等症から重症では生物学的製剤(インフリキシマブ、アダリムマブなどの抗TNF薬、ベドリズマブ、ウステキヌマブ、リサンキズマブ)または JAK 阻害薬(ウパダシチニブ)が用いられる[8]

14-3 鍼灸を置くとしたらどこか

第2巻で見るとおり、IBD を対象とした灸の試験はほぼすべてが標準治療への上乗せか、標準薬との比較である。単独療法として標準治療を置き換える設計の試験は、今回の調査範囲では見出せなかった。

臨床への翻訳

IBD の患者に灸を提案するときに施術者が言えるのは、次の形に限られる。「主治医の治療を続けたうえで、症状の負担を減らす目的で試す価値があるかもしれない。ただし粘膜の炎症そのものが灸で治るという根拠はない」。この文の後半を省略すると、第12章で見た「症状が軽くなったから通院をやめる」という最悪の経路が開く。後半こそが、施術者が言うべき部分である。

この巻の限界

本書は治療方針の決定を扱わない。上に挙げた薬剤名は、灸が比較されている相手を読者が特定できるようにするために列挙したものであり、施術者が治療の可否を判断するための材料ではない。薬剤の変更・中止に関する助言は、いかなる場合も施術者の職域を超える。

第V部

灸が届きうる経路と安全性

ここまでの四つの部は疾患の側を見てきた。この部は灸の側を見る。体表への温熱刺激が消化管の運動を変えるという主張には、動物実験による具体的な裏づけがある。ただしその裏づけは、多くの施術者が期待する形をしていない。

この部を読むと腹部への灸と四肢への灸で胃の応答が逆になることを、体節の言葉で説明できるようになる。

15同じ熱が、部位で逆に働く

本書でもっとも重要な基礎データである。灸に相当する温熱刺激を足と腹に加えると、胃の運動は逆向きに変化する。この事実は、「灸で胃腸の働きを良くする」という説明の立て方そのものを変える。

15-1 実験の設計

Su らは、雄性マウス(体重 20〜25 g)を用い、幽門内バルーンで胃の収縮の振幅・積分値・頻度を記録しながら、足三里(ST36)と中脘(CV12)に局所温熱刺激(local moxibustion-like stimuli, LMS)を 180秒 加えた[12]。温度は 41℃43℃45℃ の三条件である。系統は野生型 C57BL/6 のほか、ASIC3 欠損マウスと TRPV1 欠損マウスを用いた。各群 n = 8 である[12]

15-2 結果——温度と部位で符号が変わる

表 15-1 局所温熱刺激に対する胃運動の応答(マウス、各群 n = 8、報告値)
刺激部位41℃43℃45℃
足三里(ST36)有意な変化なし振幅 +13.3 ± 3.5% 〜 +27.2 ± 4.3%(促進)振幅 +12.6 ± 4.4% 〜 +37.2 ± 4.3%(促進)
中脘(CV12)有意な変化なし後半120秒で顕著に抑制開始30秒から抑制

足三里への 43℃ 刺激では、振幅が +13.3 ± 3.5% から +27.2 ± 4.3% の範囲で増加し(P < 0.05)、積分値は +15.3 ± 3.2% から +27.5 ± 2.6% 増加した[12]45℃ では振幅が +12.6 ± 4.4% から +37.2 ± 4.3%、積分値が +16.7 ± 4.3% から +40.5 ± 2.8% 増加した(P < 0.05 から P < 0.001)[12]

中脘では方向が逆になる。43℃ では刺激の後半120秒にわたって胃運動が顕著に抑制され(P < 0.05、P < 0.01)、45℃ では開始後30秒の時点から振幅と積分値が低下した(P < 0.05 から P < 0.001)[12]

15-3 受容体——TRPV1 が両方向に関わる

TRPV1 欠損マウスでは、足三里の促進効果と中脘の抑制効果がどちらも有意に減弱した(P < 0.05 から P < 0.01)[12]。ASIC3 欠損マウスでは顕著な差はみられなかった(P > 0.05)[12]。著者らは「TRPV1 受容体が局所温熱刺激による胃運動の調節において重要な役割を果たす」と結論している[12]

この結果の構造

温度の閾値と、反応の符号は別々に決まっている41℃ ではどちらの部位でも有意な変化がなく、43℃ で初めて反応が現れる。つまり閾値は41℃と43℃のあいだにあり、これは TRPV1 の活性化温度域と整合する。一方、その閾値を超えたときに促進が起きるか抑制が起きるかは、温度ではなく刺激部位が決めている。同じ受容体が入口になりながら、出口の符号が部位で反転する。

臨床への翻訳

この結果は、施術の言葉づかいを二か所で変える。
第一に、「灸で胃腸の働きを良くする」という一方向の説明は、この実験と整合しない。腹部への灸は、少なくともマウスの胃においては運動を抑制する。腹部を温めて楽になった患者に対して「動きが良くなった」と説明することは、測られた事実と逆の説明をしている可能性がある。
第二に、刺激量は「強く長く」ではなく「閾値を超えるかどうか」で考えるべきである。41℃ では何も起きず、43℃ で反応が現れた。温かく感じることと、生理的な反応が起きることは同じではない。
ただし三つの留保を必ず添える。これはマウスであり、麻酔下であり、測られたのは運動だけで知覚は測られていない。第3章と第7章で見たとおり、機能性疾患の症状をよりよく説明するのは知覚の側であった。したがってこの実験は、症状が軽くなる機序を説明したものではない。

15-4 この所見が経絡の証明ではないこと

足三里と中脘という二つの経穴で反応の符号が違うことは、古典的な取穴の体系と部分的に対応して見える。しかしこの実験が示したのは、刺激部位の神経支配(体節)が異なれば反射の符号が異なるという、体性自律神経反射の分節性である。腹部への刺激は交感神経を介して胃を抑制し、四肢への刺激は迷走神経を介して胃を促進するという構図は、経穴ではなく体節で説明される。この実験は経絡の実在を証明するものではない。

16熱はどこまで届くのか

前章の実験は、皮膚に加えた温度で条件が定義されていた。では実際の灸で、皮膚と、その下の組織はどこまで温まるのか。ここには、施術者の直感と測定値が食い違う点がある。

16-1 組織内温度の実測と数値解析

Solovchuk らは、豚組織を対象にMRIによる三次元の温度上昇測定と数値解析を行い、間接灸(艾条を組織表面から 6 mm 離して固定、艾条は直径 8 mm・長さ 15 mm・重量 1.7 g、燃焼 30分+冷却観察 15分)の温度分布を報告した[15]

  • 艾条と組織表面のあいだの空気層の温度は、24〜25分 の時点で最大およそ 135℃ に達した[15]
  • 組織表面(皮膚に相当)の温度は最大でおよそ 40℃ であった[15]
  • 温度上昇は深さ 4 cm まで及んだ[15]

著者らは、この過程で熱伝導と輻射の両方が重要な役割を果たすとし、輻射により従来考えられていたより深部まで熱が到達しうると述べている[15]

この数値の限界

この研究は豚組織を用いた ex vivo の実験と数値解析であり、生体ではない。生体では血流による熱の運び去り(perfusion)が働くため、同じ加熱でも組織内の温度分布は変わる。したがって「深さ4 cm まで温まる」をヒトの腹部にそのまま当てはめることはできない。また、報告された表面温度およそ 40℃ は、前章で有意な反応が得られなかった 41℃ を下回っている。距離・時間・灸の種類が違えば表面温度は変わるため、この二つの数値を直接つなげて「間接灸では反応が起きない」と結論することはできない。本書はこの二つを、条件の異なる別々の報告として並べるにとどめる。

16-2 隔物灸の温度について

第2巻で扱う中国の臨床試験の多くは、生姜や附子を皮膚と艾のあいだに置く隔物灸を用いている。この手技で皮膚温が何度に達するかは、刺激量を論じるうえで中心的な数値である。

分かっていないこと

今回の調査では、隔物灸(生姜灸・附子灸)の皮膚温を測定した査読済みの一次文献に到達できなかった。複数の二次的な記述に具体的な温度値が現れるが、原著にあたって測定条件(機材・部位・サンプリング間隔・艾炷数)を確認できなかったため、本書はその数値を採用しない。第2巻で扱う隔物灸の臨床試験群は、刺激量を温度で報告していない。艾炷の数と施灸時間は記載されているが、皮膚温は記載されていない。したがって、これらの試験の刺激量を前章の 41/43/45℃ という条件と突き合わせることは、現時点ではできない。これは本書全体を通じて最大の空白の一つである。灸の温度そのものについては、既刊『温度曲線』が扱っている。

17安全性と連携の判断

灸の有害事象は熱傷が中心である。ただし消化器領域、とくに炎症性腸疾患の患者では、一般集団とは異なるリスクの構造がある。この章は本書の結論にあたる。

17-1 報告されている有害事象

Xu らは灸の有害事象に関する症例報告を系統的に集め、6 か国・24 論文・64 例を集計した[16]。国別では中国が 51 例(12 論文)と最も多く、米国 5 例(6 論文)、韓国 4 例(4 論文)が続く[16]

表 17-1 症例報告に現れた灸の有害事象(Xu ら 2014、全64例)
種類件数
熱傷43
アレルギー7
感染6
死亡1

そのほかに悪心・嘔吐、咳、胎児への影響、基底細胞癌、眼瞼外反が報告されている[16]。死亡例は施術中に倒れた 29 歳の喘息のある男性で、著者らは因果関係を「考えにくい(unlikely)」と評価している[16]。直接灸が最も重篤な障害(とくに永続的な瘢痕)を生じ、間接灸と煙の吸入もアレルギーを中心とする有害反応を引き起こしたと記述されている[16]

この集計の限界

著者らは発生率は分かっていないと明記している[16]。症例報告の集計であり、分母がないためである。また、報告された障害のなかには「治療の想定内の結果であって真の有害事象とは言えないもの」が含まれるとも述べている[16]64例という数字は、灸の危険性の大きさを示す数字ではなく、報告された事象の内訳を示す数字である。

17-2 消化器領域に固有のリスク

上の集計は一般集団のものである。本書が扱った疾患群には、次の固有の事情がある。

ステロイド・免疫抑制薬・生物学的製剤の使用
第14章で見たとおり、IBD の標準治療にはこれらが含まれる。皮膚の脆弱化と創傷治癒の遅延、感染リスクの上昇が想定される状況で、熱傷を伴いうる手技を腹部に行うことになる。この組み合わせについて灸の有害事象を定量した報告には、今回の調査範囲では到達できなかった。
低栄養と体重減少
CD では体重減少と吸収不良が生じうる。皮下脂肪が薄い腹壁では、同じ施灸でも組織内の温度分布が変わる。
腹部の圧痛と炎症
活動期の IBD では腹部に圧痛があり、腹部への施術そのものが苦痛となりうる。
慢性下痢に伴う体液の状態
第11章で述べたとおり、生理学的な妥当性からの注意である。
受診の遅れ
第4章・第8章・第12章で繰り返し述べた経路。集計されない有害事象であり、施術者が自分で管理するほかない。

17-3 施術前に確認する項目

本書の内容から導かれる確認項目を、実務の順序で並べる。診断の手引きではなく、灸を始めてよいかを判断するための項目である。

  1. その症状で医療機関を受診したことがあるか。内視鏡を受けたことがあるか。
  2. 第4章・第8章の警告徴候に該当するものはないか(体重減少、血便、夜間の下痢、嚥下困難、貧血の指摘、50〜60歳以上での新規発症)。
  3. 診断名がついている場合、それは機能性か、炎症性腸疾患か。
  4. IBD であれば、現在の治療内容と、直近の内視鏡評価はいつか。
  5. ステロイド・免疫抑制薬・生物学的製剤を使用しているか。
  6. 訴えの中心は、上部か下部か。両方か(第2章のとおり、FD の 26.1% が IBS の基準も満たす)。
  7. 便秘であれば、回数の問題か、排出の問題か(第9章の三分類)。
臨床への翻訳

この一覧を通した結果として、灸を行わない、あるいは受診を先行させるという判断になる患者は一定数いる。それは施術の機会を失うことではない。第2巻で見るとおり、消化器領域における灸の効果の根拠はきわめて限られている。根拠の限られた介入を、除外診断が済んでいない患者に対して行うことは、期待できる利益に対して負う責任が大きすぎる。この巻が最終的に読者に渡すのは、灸のやり方ではなく、灸を始めない判断を自信をもって下すための材料である。

17-4 次の巻へ

ここまでで、疾患の側の準備は終わった。何が問題で、何で測られ、どこからが医療の領域かが決まった。第2巻では、この物差しを手に持ったまま、灸の臨床試験を一つずつ読む。読み終えたとき、読者は「灸は消化器に効くのか」という問いが、そのままでは答えられない問いであることを理解しているはずである。

演習

理解度チェック

本書の内容から13問。選択するとその場で正誤と解説が出ます。設問はすべて本文に記載した報告値・記述に対応しており、各問には該当章へのリンクを付けました。自己確認のための演習であり、資格や技能を証明するものではありません。

序章症状の名前を決めるまで1問
Q01 出典:序章

消化器疾患の臨床試験で用いられる指標のうち、「複合臨床指標」にあたるのはどれか。

第I部上部消化管——胃はどう働き、どこで壊れるか4問
Q02 出典:第1章

胃の適応性弛緩(accommodation)が指すのはどの働きか。

Q03 出典:第2章

Rome IV における食後愁訴症候群(PDS)の要件はどれか。

Q04 出典:第3章

機能性ディスペプシアの病態を扱った Oshima の総説で、症状の重症度と密接に関連するとされたのはどれか。

Q05 出典:第4章

消化器領域で灸が起こしうる最大の有害事象はどれか。

第II部下部消化管——過敏性腸症候群2問
Q06 出典:第6章

Rome IV における IBS-D(下痢型)の定義はどれか。

Q07 出典:第8章

過敏性腸症候群で器質的疾患を見落とさないために、施術室で1問で聞ける鑑別の質問はどれか。

第III部便秘と下痢——何を測っているのか2問
Q08 出典:第9章

Rome IV の機能性便秘の診断要件について正しいのはどれか。

Q09 出典:第10章

便秘のアウトカムのうち、患者の記録ではなく外から測る量はどれか。

第IV部炎症性腸疾患2問
Q10 出典:第12章

潰瘍性大腸炎とクローン病の炎症の深さの違いとして正しいのはどれか。

Q11 出典:第13章

クローン病の疾患活動性指標 CDAI について正しいのはどれか。

第V部灸が届きうる経路と安全性2問
Q12 出典:第15章

足三里と中脘に 43〜45℃ の灸様刺激を与えたマウス実験(Su ら)で観察された胃運動の変化はどれか。

Q13 出典:第16章

灸と消化器疾患をめぐる文献のうち、測定条件を確認できる査読済みの一次文献に到達できなかったのはどれか。

回答 0 / 13正解 0
付録

引用文献

本書の記述はすべて以下の一次・二次資料に基づく。本文に到達できなかった資料はその旨を明記し、数値を引用していない。非査読の資料は本文中でその旨を示した。

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灸の臨床|消化器① 病態と適応 第1版(2026年8月)。灸エビデンス・ライブラリ/臨床編。
本書の数値はすべて原著の報告値であり、編者による計算・推定値は含まない。到達できなかった資料の数値は引用していない。エビデンスの階層は序章の表 0-1 に従って本文中に明示した。効果量は第2巻『灸の臨床|消化器② エビデンスと臨床判断』が扱う。
改版履歴:2026年8月 初版発行。