疑い方を先に渡す
本書は「灸は痛みに効く」を証明する本ではない。痛みという現象の経路を分解し、その経路のどこに灸の入力が届いているかを、原著の報告値だけで確かめていく本である。二分冊の②にあたる本書は、痛みの種類別の臨床エビデンスと、その数値の読み方を扱う。経路と機序は①に収めた。
00本書の読み方とエビデンスの階層
痛みは主観である。主観を扱う研究は、測り方ひとつで数字が二倍動く。だから本書では、数値を出すたびにそれがどの種類の研究から出た数値なのかを明示する。読者に先に渡すべきは結論ではなく、疑い方である。
0-1 本書を貫く三つの問い
- 痛みは、どの受容器・どの線維・どの中継点を通って脳に届き、どこで抑えられるのか。
- 灸という熱刺激は、その経路のどの地点に、どれだけの大きさで介入しているのか。
- その介入の大きさは、痛みの種類によってどう変わるのか。
三つ目が本書の中心である。「灸は痛みに効くか」という問いは、答えが出ない形をしている。痛みは単一の現象ではないからだ。炎症で生じた痛みと、神経が傷ついて生じた痛みと、組織にも神経にも明らかな損傷がないのに続く痛みは、発生している場所も、維持している仕組みも違う。本書は、この三つを分けたうえで灸の作用を検討する。
本書は原著の報告値だけで構成する。報告値を超えて編者が可能性を述べる箇所は、1冊につき2件までとし、いずれも「考察」「臨床仮説」等のラベルを付けた囲みの中に置き、成立しない条件を併記する。囲みの外の本文に、報告されていない因果や機序を書かない。ラベルのない断定は、すべて原著の報告値か、原著の著者自身の結論である。
0-2 エビデンスの階層
以下の階層を、本書のすべての記述に付す。階層が低いことは「間違い」を意味しない。どこまで一般化してよいかの範囲を示している。
| 階層 | デザイン | 典型的な弱点 |
|---|---|---|
| A | 盲検化RCT/Cochraneレビュー | 本数が少ない。偽刺激の妥当性が常に議論になる |
| B | ヒトの客観指標を用いた実験(脳画像・温度実測など) | n が小さい。観察時間が短い |
| C | 動物実験(機序解明) | 刺激条件がヒト臨床と異なる。種差 |
| D | 非盲検RCT/単群前後比較/それらのメタ解析 | 出版バイアス大。実施国の偏り |
| E | 症例報告・非査読資料 | 査読なし。ただし物理測定値や有害事象の記録は有用 |
階層Dの数値がもっとも大きく見えることが多い。本書に出てくる効果量のうち、値が大きいものほど非盲検・単一国由来である傾向がある。数字の大きさと確からしさは、この分野では逆相関しうる。第7章にその一覧を置いた。
0-3 確実性の書き分け
本書は「効く」という語を使わない。代わりに次を使い分ける。「〜である」=確実性が高い。「おそらく〜する」=中等度。「〜と報告されている」「〜の可能性がある」=低い。「〜という報告があるが、確実性は非常に低い」=非常に低い。「〜については定量的なデータが見出せなかった」=不明。
また、有意差がなかった結果を「傾向がみられた」とは書かない。有意差がなければ、有意差はなかったと書く。
0-4 既刊との関係
本ライブラリの既刊『灸と神経生理学』は、灸の熱が皮膚でどう受容され、どんな信号に変換され、どんな出力を生むかを刺激の側からたどった。本書は同じ現象を痛みの側から見る。温度感受性TRPチャネルの閾値地図、後角ニューロンの実測発火、自律神経出力については既刊に詳しい。本書ではそれらを前提として扱い、重複する説明は最小限にとどめた。局所血流の時間経過については『灸と血流の生理学』を参照されたい。
0-5 本書が扱わないこと
- 鍼(刺鍼)単独の研究を、灸の根拠として引用しない。両者は動員する線維も層も異なる可能性が示されている(『灸と痛みの生理学①』第10章)。ただし比較の対象として鍼の研究を提示する箇所はあり、その場合は明示する。
- 経絡・気血などの伝統的説明を、現代生理学の言葉で裏づけられたものとして書かない。観察された事実としては記すが、それが伝統理論の実在を証明するものではない。
- 商品・器具のブランド・価格・購入先。本書は特定の製品にいっさい言及しない。
痛みの種類別に見る灸の反応
『灸と痛みの生理学①』第1章で立てた三分類に沿って、臨床試験の報告値を並べる。ここに出る数値の大半は階層Dである。数値そのものより、その数値がどんな対照と比べて出たかに注意して読まれたい。
01炎症性の痛み——変形性膝関節症
変形性膝関節症は、灸の臨床研究がもっとも集中している対象である。そして本書全体で唯一、二重盲検・偽灸対照で有意差が出たRCTが存在する領域でもある。同時に、非盲検試験との落差がもっとも大きい領域でもある。
1-1 二重盲検・偽灸対照RCT(階層A)
Zhaoら(2014年)は、変形性膝関節症患者 110名 を実灸群 55名・偽灸群 55名 に無作為に割り付けた[10]。ST35(犢鼻)、EX-LE4(内膝眼)、患側膝の阿是穴に、週3回・6週間(計18回)、1点につき3壮(各約6分燃焼、1回約20分)の施灸を行った。
この研究の要点は温度が実測されていることである。実灸の皮膚温は 49.8℃、偽灸は 40.9℃ であった[10]。偽デバイスは「外観・燃焼過程・燃焼後の残渣が本物に似ているが、基部の絶縁金属膜が煙と熱の大部分を遮断して皮膚に到達させない」構造である[10]。
| 時点 | 実灸(n=55) | 偽灸(n=55) | p |
|---|---|---|---|
| ベースライン | 6.69 ± 2.41 | 6.27 ± 2.72 | > 0.05 |
| 3週 | 4.80 ± 2.47 | 5.56 ± 3.09 | 0.012 |
| 6週(主要評価時点) | 3.03 ± 2.33 | 4.56 ± 3.09 | < 0.001 |
| 12週 | 2.85 ± 2.67 | 4.41 ± 3.65 | 0.001 |
| 24週 | 3.14 ± 2.42 | 4.51 ± 3.29 | 0.002 |
身体機能のWOMACスコアでも6週時点で 16.43 ± 12.16 対 21.70 ± 16.53(p = 0.015)と差がついたが、24週では 15.92 ± 12.73 対 20.50 ± 17.86(p = 0.058)となり有意差は消えた[10]。疼痛は24週まで差が残り、機能は残らなかった。
1-2 盲検化は成立していたか
この研究の価値は盲検化検証にある。6週時点で患者に割付を推測させたところ、正答 36%(実灸18/55、偽灸22/55)、誤答 32%、不明 32% であり、群間に有意差はなかった(Fisher の正確検定 p = 0.565)[10]。施術者側の一致度は κ = −0.53(p = 0.833)であった[10]。
ただし著者ら自身が「実灸を受けた者のほうが偽灸を受けた者より温かさを感じたことは限界でありうる」と認めている[10]。49.8℃ と 40.9℃ の差は、『灸と痛みの生理学①』第2章の侵害受容域をまたいでいる。
1-3 非盲検・通常ケア対照の試験(階層D)
Kimら(2014年)は韓国の4施設で、変形性膝関節症患者 212名 を灸群 102名・通常ケア群 110名 に割り付けた非盲検RCTを行った[11]。ST36・ST35・ST34・SP9・EX-LE04・SP10 の6穴+阿是穴2点までに、無煙の間接灸を3壮ずつ、週3回・4週間実施した。
| 指標/時点 | 灸(n=102) | 通常ケア(n=110) | p | 効果量 η² |
|---|---|---|---|---|
| K-WOMAC ベースライン | 34.16 ± 16.80 | 34.15 ± 18.01 | — | — |
| K-WOMAC 5週 | 25.42 ± 19.26 | 33.60 ± 17.91 | < 0.01 | 0.0477 |
| K-WOMAC 13週 | 26.70 ± 18.82 | 34.69 ± 18.67 | < 0.01 | 0.0518 |
| 疼痛NRS 5週 | 44.77 ± 22.73 | 56.23 ± 17.71 | < 0.01 | 0.0073 |
| 疼痛NRS 13週 | 40.53 ± 26.63 | 54.26 ± 19.61 | < 0.01 | 0.0075 |
有意差はあるが、著者らは効果量について「ほとんどの指標で比較的小さい」(η² = 0.002〜0.05)と明記している[11]。またサブグループ解析では、5週時点で軽症例には有意な改善がみられたが、中等症〜重症例ではみられなかった[11]。
著者らの限界の記述は率直である。適切な偽灸デバイスが利用できなかったこと、灸群と通常ケア群で来院頻度が異なるため評価者の盲検化が破れたこと、両群で他の治療が自由に併用されていたこと、そして期待効果の寄与を否定できないことを挙げている[11]。
1-4 メタ解析(階層D)
Yuanら(2019年)は 39 のRCT、3,293名(治療群1,640・対照群1,653)を統合した[12]。
| アウトカム | 試験数 | 効果量(95% CI) | I² |
|---|---|---|---|
| 総有効率 | 27 | RR 1.20(1.16, 1.25) | 45% |
| WOMAC(対 西洋薬) | 8 | MD −11.08(−11.72, −10.44) | 98% |
| WOMAC(対 陰性対照) | 2 | MD −8.38(−12.69, −4.06) | 0% |
| VAS | 6 | MD −2.12(−2.30, −1.93) | 98% |
| 有害事象 | 3 | RR 0.35(0.15, 0.84) | 0% |
I² が 98% という値に注意されたい。これは統合された試験の結果がほとんど一致していないことを意味する。この状態で算出された統合値を「灸の効果の推定値」として扱うことはできない。
著者らの限界の記述は明確である。「総有効率の評価基準が試験間で一致していなかった」「含まれた研究の大半で方法論的質が比較的低く、潜在的なバイアスのリスクがあり、これが信頼性を弱めている」「プラセボ対照を用いた対照群がほとんどなかったため、プラセボ効果を除外することが困難であった」[12]。39 試験中 32 が中国、英語論文は 7 編のみであり、ファネルプロットの非対称から出版バイアスの存在が指摘されている[12]。
膝の痛みについて、施術者が患者に伝えられる範囲は次のとおりである。偽灸と比べて疼痛スコアに差が出た二重盲検試験が1本存在し、その差は24週まで維持された。ただし機能面の差は24週で消えており、非盲検試験での効果量は小さい。「よく効く」ではなく「疼痛に対して、偽灸を上回る差が出た報告がある」が、現時点で正確な表現である。
02神経障害性の痛み
神経障害性疼痛に対する灸の研究は、帯状疱疹後神経痛と脳卒中後肩手症候群に集中している。統合値は大きく見えるが、その内訳を見ると確実性は低い。『灸と痛みの生理学①』第12章で見た動物実験の「階段状の反応」を臨床で検証した研究には到達できなかった。
2-1 帯状疱疹後神経痛(PHN)
Wuら(2021年)は 13 のRCT、798名(灸402・対照396)を統合した[13]。用いられた灸の種類は、壮医薬線灸(5試験)、灯芯灸、麦粒灸、雷火灸(2試験)、熱敏灸、天灸、電子灸、モンゴル灸と多岐にわたる。対照は薬物療法(9試験)、生薬(3試験)、無治療(1試験)であった。
| アウトカム | 効果量(95% CI) | I² | p |
|---|---|---|---|
| 臨床有効率 | OR 3.65(2.32, 5.72) | 0% | < 0.00001 |
| VAS | MD −1.79(−2.26, −1.33) | 91% | < 0.00001 |
| 有害事象 | OR 0.33(0.06, 1.77) | — | 0.19 |
著者らの結論は、統合値の大きさに反して抑制的である。「含まれた研究の方法論的質の欠如と有意な異質性のため、帯状疱疹後神経痛に対する灸の有効性と安全性について確固たる結論を導くことは依然として困難である。今後の質の高い研究が緊急に必要である」[13]。
ファネルプロットは「両側で対称性が乏しく、著しく左に偏っている」とされ、出版バイアスの存在が明示された。13 試験すべてが中国で実施されている[13]。著者らはさらに、「臨床有効率」という指標が国際的に標準化・受容されていないこと、薬物対照の多くが神経障害性疼痛に対して確立された薬剤ではなかったことを限界に挙げている[13]。
2-2 脳卒中後肩手症候群(I期)
Mengら(2025年)は 32 のRCT、2,814名(治療1,402・対照1,412)を統合した[14]。灸の種類は懸灸・隔姜灸・麦粒灸・温針灸・熱敏灸・隔物灸・雷火灸・薬線灸の8種類で、対照はリハビリテーション訓練単独(30試験)または西洋薬(2試験)であった。
| アウトカム | 効果量(95% CI) | I² | GRADE確実性 |
|---|---|---|---|
| 疼痛(VAS 0-10) | MD −1.68(−2.08, −1.28) | 89% | 低 |
| 上肢運動機能(FMA-UE) | MD 8.76(7.00, 10.53) | 94% | 低 |
| 修正Barthel指数 | MD 10.27(6.16, 14.37) | 81% | 非常に低 |
| Barthel指数 | MD 8.06(6.20, 9.91) | 59% | 非常に低 |
| NIHSS | MD −2.34(−2.96, −1.72) | 0% | — |
| 総有効率 | RR 1.27(1.21, 1.33) | 0% | — |
| 有害事象 | RR 1.62(0.63, 4.16) | — | — |
疼痛と運動機能のGRADE確実性は低、日常生活動作の指標は非常に低と評価された[14]。重篤な熱傷の報告はなかった。著者らは、ほとんどの研究が無作為化と盲検化に関する重要な情報を報告していないこと、サブグループ解析でも説明できない高い異質性、疼痛と機能のアウトカムにおける出版バイアス、そして全試験が中国で実施されていることを限界として挙げている[14]。
2-3 この領域の空白
糖尿病性多発神経障害、化学療法誘発性末梢神経障害、三叉神経痛といった他の代表的な神経障害性疼痛について、灸単独の効果量を報告した査読済みメタ解析に、本書の調査範囲では到達できなかった。化学療法誘発性末梢神経障害の領域では鍼を対象とした研究が主体であり、灸は併用療法の一要素として扱われている。
神経障害性疼痛に対する灸のデータは、統合値としては存在するが、確実性はいずれも「低」または「非常に低」である。薬物療法の代替として提案できる水準にはない。加えて、これらの試験の対照はリハビリテーションや生薬であって、神経障害性疼痛に確立された薬剤ではないことが多い。「灸のほうが薬より良い」と読める記述には、対照薬が何であったかを必ず確認する必要がある。
03内臓・骨盤の痛み
内臓由来の痛みは、体表の刺激と同じ後角ニューロンに収束する(『灸と痛みの生理学①』第4章)。この領域には、灸の研究のなかでも設計が比較的しっかりした臨床試験がある。同時に、統計の記述に明らかな不整合を抱えたメタ解析もある。
3-1 原発性月経困難症——実薬対照のRCT
Yangら(2017年)は、原発性月経困難症の患者 152名 を灸群とイブプロフェン群に 76名 ずつ無作為に割り付けた実用的非盲検試験を行った[15]。完了は灸群 69名、イブプロフェン群 64名。灸は温和灸をCV4(関元)・CV8(神闕)・SP6(三陰交、両側)に、月経開始7日前から1日1回・7日間を1クールとして3周期実施した(1回25〜30分)。対照はイブプロフェン0.3 gを1日2回、月経開始前日から3日目まで、3周期である。
| 時点 | 灸 | イブプロフェン | 群間差(95% CI) | p |
|---|---|---|---|---|
| ベースライン | 6.38 ± 1.28 | 6.41 ± 1.29 | −0.04(−0.46, 0.39) | 0.86 |
| 3か月(治療終了時) | 2.54 ± 1.41 | 2.47 ± 1.29 | 0.07(−0.38, 0.52) | 0.76 |
| 6か月(3か月後追跡) | 3.08 ± 1.49 | 4.01 ± 1.21 | −0.87(−1.32, −0.42) | < 0.01 |
この結果の形は特徴的である。治療終了時点では両群に有意差がなく、治療終了から3か月後に差が現れた。疼痛持続時間も6か月時点で −0.43日(95% CI −0.83, −0.03、p = 0.04)、症状スコア(CMSS)は −4.98(95% CI −6.58, −3.39、p < 0.01)と灸群が良好であった[15]。血清マーカーでは両群ともPGF2α・オキシトシン・von Willebrand因子が低下し、PGE2の低下は灸群のみで認められた(p = 0.03)[15]。有害事象は両群とも報告されなかった。
著者らは、主観的アウトカムのみであること、非盲検であるため信頼性が損なわれること、対象が主に大学生で一般化可能性が限られること、そして「本研究が示すのは efficacy(効力)ではなく effectiveness(実効性)であり、偽対照がないため心理的効果を除外できない」ことを明記している[15]。
3-2 熱敏灸のメタ解析——数字の不整合に注意
Xuら(2022年)は熱敏灸による原発性月経困難症の治療について 19 のRCT、1,325名 を統合した[16]。
| アウトカム | 試験数 | 効果量(95% CI) | p |
|---|---|---|---|
| VAS | 9 | SMD −0.98(−1.15, −0.81) | < 0.001 |
| 症状スコア | 6 | SMD −0.67(−0.87, −0.47) | < 0.001 |
| CMSS | 3 | SMD −0.88(−1.13, −0.62) | < 0.001 |
| 総有効率 | 18 | RR 0.92(0.85, 0.99) | 0.031 |
最終行の総有効率に注目されたい。原著は熱敏灸が対照より優れていたと記述しているが、報告されたリスク比は 0.92(95% CI 0.85, 0.99)であり、1を下回っている。通常の定義では、これは熱敏灸群の有効率が対照群より低いことを意味する。原著の本文の主張と、報告された統計値の向きが一致していない。本書はこの数値を原著の報告どおり記載するが、この統合値を効果の根拠として用いることはできないと判断する。
方法論上の問題も大きい。19 試験のうち無作為化の方法を適切に報告していたのは 9 試験のみであり、アウトカム評価者の盲検化を報告した試験は一つもなかった[16]。全 19 試験が中国で実施されている。Egger検定は p = 0.976 で出版バイアスは検出されなかったが、これは検出力の問題を含みうる。
3-3 過敏性腸症候群の内臓痛
『灸と痛みの生理学①』第13章で扱ったZhuら(2014年)の研究は、直腸伸展刺激という標準化された侵害刺激に対する反応を測っている点で、本書の他の臨床研究と性格が異なる。100 ml伸展時の痛みは 5.6 ± 0.63 から 4.0 ± 0.28 へ低下した(p < 0.05)[8]。ただしn = 15であり、圧制御ではなく用手的な容量制御であるという限界がある。
月経困難症のデータで臨床的にもっとも重要なのは、治療終了時点では実薬と差がなく、3か月後に差が出たという時間構造である。もしこれが再現される現象なら、灸の価値は「その場で薬より効く」ことではなく「やめた後に戻りにくい」ことにある。しかしこれは非盲検の1試験の所見であり、偽灸対照での再現は示されていない。患者に「薬より効く」と説明する根拠にはならない。
04腰の痛み
慢性腰痛は、灸の適応としてもっとも一般的に語られる一方、統合されたエビデンスの質はもっとも低い部類である。この章では、比較の基準として鍼のCochraneレビューを併置する。
4-1 慢性腰痛に対する灸のメタ解析
Chenら(2020年)は 10 のRCT、987名 を統合した[17]。
| 比較 | 効果量(95% CI) | p |
|---|---|---|
| VAS:対 西洋薬 | −1.69(−2.40, −0.98) | < 0.00001 |
| VAS:対 鍼 | −0.47(−0.92, −0.02) | 0.04 |
| VAS:対 コアスタビリティ訓練 | −0.41(−0.87, 0.05) | 0.08(有意差なし) |
| 能力障害(ODI/RMDQ) | SMD −3.80(−5.49, −2.11) | < 0.0001 |
| JOAスコア | MD 4.10(2.30, 5.90) | < 0.00001 |
| SF-36 | MD 13.41(9.68, 17.14) | < 0.00001 |
原著はVASの比較を「RR」(リスク比)と表記しているが、示されている値は連続変数の差であり、実質は平均差である[17]。本書は原著の表記をそのまま引用したうえで、この不整合を明示する。統計指標のラベルが誤っている論文は、この分野では珍しくない。数値を引用する側が確認する責任を負う。
著者ら自身の結論は明快である。「適格試験のサンプルサイズが小さく、利用可能な論文のバイアスリスクが高いため、灸が慢性腰痛の治療に有効な介入であるという確固たる結論を導くことは困難である」。エビデンスレベルはGRADEで非常に低〜低と判定された[17]。
4-2 腰椎椎間板ヘルニアに対する3群比較RCT
Chenら(2014年)は中国の4施設で 456名 を 152名 ずつ3群に割り付けた[18]。
| 群 | 介入 |
|---|---|
| 熱敏灸(HSM) | 両側BL25(大腸兪)とDu2(腰兪)で作る三角領域を約3 cmの距離で探索し、熱敏化点に施灸。1回30〜60分(平均 41.13 ± 5.26分、範囲21〜60分)。1日2回×4日+1日1回×10日=14日間で18回 |
| 従来灸(CM) | BL25・BL40(委中)・阿是穴に各15分(1回約45分)。同じく18回 |
| 薬物+鍼(CDA) | 20%マンニトール250 mL点滴+ジクロフェナク75 mg 1日2回(最初の3日)、以後ジクロフェナク単独。鍼は7穴に30分留置、1日1回×14回 |
| 群 | ベースライン | 2週 | 6か月 |
|---|---|---|---|
| 熱敏灸 | 18.6 (3.8) | 3.8 (2.6) | 3.7 (2.2) |
| 従来灸 | 17.5 (3.3) | 7.9 (3.0) | 8.9 (3.1) |
| 薬物+鍼 | 17.2 (4.4) | 8.5 (2.9) | 10.1 (2.9) |
2週時点の分散分析は F = 3.8(P = 0.016)、6か月時点は F = 5.2(P = 0.008)であった[18]。456名 に有害事象の報告はなかった。
ただし著者ら自身が、この大きな群間差は実施バイアスと検出バイアスによる可能性があると明記している。試験実施医師の盲検化は不可能であり、薬物+鍼群の患者を盲検化することもできなかった[18]。加えて、従来灸群では治療時間とM-JOA変化量の相関がPearson r = 0.0006 とほぼゼロであり、用量反応関係が確認できていない[18]。
4-3 比較の基準——鍼のCochraneレビュー
灸の数値の大きさを判断するために、同じ疾患に対する鍼のCochraneレビューを並べる。Muら(2020年)は 33 研究・8,270名 を統合した[19]。
| アウトカム | 効果量(95% CI) | 確実性 |
|---|---|---|
| 疼痛(即時、VAS 0-100) | MD −9.22(−13.82, −4.61) | 低 |
| 腰痛特異的機能(即時) | SMD −0.16(−0.38, 0.06) | 非常に低 |
| QOL(短期) | SMD 0.24(0.03, 0.45) | 低 |
レビューはこの疼痛の差について、臨床的に重要とされる閾値(15点または30%の相対変化)に達していないと述べている[19]。有害事象の頻度は偽刺激と同程度であった(確実性:低)。
ここには重要な非対称がある。偽刺激対照で厳格に評価された鍼は、統計的有意差はあっても臨床的閾値に届かなかった。一方、偽灸対照がほとんど存在しない灸のメタ解析では、はるかに大きな統合値が出ている。この差は灸が鍼より優れていることを意味しない。対照の厳しさが違うことを意味している可能性が高い。腰痛の患者に灸を用いる判断は、この不確かさを前提に行う必要がある。
05侵害可塑性の痛み——データがない領域
『灸と痛みの生理学①』第1章で挙げた三分類のうち、三つ目についてはここまで一度も数値を出していない。理由は単純である。本書の調査範囲では、灸の侵害可塑性疼痛に対する効果を報告した査読済みRCTに到達できなかった。
5-1 何が見つからなかったか
線維筋痛症を対象とした灸単独の無作為化比較試験、および効果量を報告したメタ解析に、本書の調査範囲では到達できなかった。鍼を含む鍼灸関連療法のネットワークメタ解析は存在するが、灸単独の効果量を分離して報告したものは見出せなかった。
同様に、IASPの侵害可塑性疼痛の臨床基準(2021年)[1]を用いて患者を層別化し、その層ごとに灸の効果を検討した研究にも到達できなかった。
5-2 なぜこれが重大な空白なのか
三つの理由がある。
- 臨床で最も多く遭遇する型である可能性が高い。長期化した腰痛・頸肩の痛み・全身の痛みを訴える患者の少なくない部分が、この機序を含む。
- この型では、下行性調節系が機能不全に陥っている。『灸と痛みの生理学①』第6章で見たとおり、CPMは線維筋痛症を含む慢性疼痛病態で一貫して低下している[3]。もし灸の鎮痛の一部がこの系に依存しているなら、この型ではその経路が使えないことになる。
- 刺激量を上げる判断が危険になりうる。慢性疼痛では下行性調節が促進側に傾き、DNICが鎮痛ではなく痛覚過敏に転じうると指摘されている[3]。侵害受容入力である灸を強めることが、この型で何を起こすかは検証されていない。
侵害可塑性疼痛の患者に灸を用いてはならない、と本書は述べない。述べられるのは、その判断を支えるデータが存在しないということである。この型が疑われる症例では、刺激量を控えめに始め、施術後の反応を通常より慎重に確認することが、生理学から導ける唯一の合理的な態度である。効果が乏しいときに刺激量を上げるという通常の調整は、この型では正当化する根拠を欠く。
06炎症マーカーは動くのか
痛みの主観的評価だけでなく、血中の炎症性サイトカインを測った研究群がある。ここには、灸単独と灸併用で結果が大きく異なるという興味深い、そして解釈に注意を要する所見がある。
6-1 腰痛患者における炎症性サイトカイン
Zhaoら(2023年)は、腰痛を対象に炎症性サイトカインをアウトカムとした 30 のRCT、2,560名 を統合した[20]。
| 指標 | 灸単独 | 灸+他治療 |
|---|---|---|
| 炎症性サイトカイン全体 | −0.42(−0.72, −0.11)/I²=81% | −1.56(−1.86, −1.26)/I²=93% |
| IL-6 | −0.71(−1.25, −0.17)/I²=82% | −2.19(−2.85, −1.53)/I²=96% |
| IL-1β | 有意差なし | −0.98(−1.32, −0.64)/I²=48% |
| TNF-α | 有意差なし | −1.52(−1.90, −1.15)/I²=90% |
| IL-23 | −1.61(−2.20, −1.03) | — |
| IL-1、IL-17 | 有意差なし | — |
副作用の発生率に群間差はなかった(リスク差 −0.01、95% CI −0.02, 0.01、p = 0.59、I² = 0%)[20]。
6-2 この結果をどう読むか
まず方法論を確認する。バイアスリスクは低リスクが 7%(2試験)、中等度が 66%(20試験)、高リスクが 27%(8試験)であった[20]。Egger検定は p = 0.0000 であり、出版バイアスが検出されている[20]。30 試験すべてが中国の公立病院で実施されている。
メタ回帰では、サブグループの設定・対象者の状態・灸の種類・対照の種類のいずれも異質性を説明する要因とならなかった(すべて p > 0.05)[20]。I² が 90%を超える異質性の原因が特定できていないということである。
灸単独ではIL-1βとTNF-αに有意差がなく、併用では大きな差が出ている。これは灸の追加効果を示すようにも見えるが、併用群の対照は「他治療単独」であり、両群の差には他治療との相互作用も含まれる。加えて、血中サイトカインの変化が痛みの変化とどう対応するかは、この解析では検討されていない。「炎症が下がったから痛みが減った」という因果は示されていない。
炎症マーカーの変化を灸の効果の説明として患者に用いる場合、その根拠は出版バイアスが検出された中国単一国由来のメタ解析であり、痛みとの対応関係は検討されていない、という条件が付く。説明の材料としては弱い。『灸と痛みの生理学①』第12章で見た「炎症性疼痛では温度依存的に鎮痛が強まる」という動物実験のほうが、機序の説明としては筋が通っている。
数字の読み方・安全性・未解決問題
ここまでに並べた数値を、一つの表にまとめて相互に比較する。そのうえで、なぜそれらの数値を額面どおり受け取れないのかを、方法論・撤回・ガイドラインの誤りという三つの具体例で示す。
07疾患別の効果量一覧と、割り引く理由
本書の中心的な問いの後半——「どの痛みにどれだけ効くのか」——に対する現時点での回答である。ただし表を見る前に、この表の読み方を先に決めておく必要がある。
7-1 効果量の一覧
| 対象 | 痛みの型 | 比較 | 効果量(95% CI) | 確実性・注記 | 文献 |
|---|---|---|---|---|---|
| 変形性膝関節症 | 侵害受容性 | 偽灸(二重盲検) | WOMAC疼痛 3.03±2.33 対 4.56±3.09(6週、p<0.001) | 階層A/単一試験・n=110 | [10] |
| 変形性膝関節症 | 侵害受容性 | 通常ケア(非盲検) | 疼痛NRS 44.77±22.73 対 56.23±17.71(5週) | 階層D/効果量 η²=0.0073 | [11] |
| 変形性膝関節症 | 侵害受容性 | 西洋薬ほか(メタ解析) | VAS MD −2.12(−2.30, −1.93) | 階層D/I²=98%・出版バイアスあり | [12] |
| 帯状疱疹後神経痛 | 神経障害性 | 薬物・生薬・無治療 | VAS MD −1.79(−2.26, −1.33) | 階層D/I²=91%・全13試験が中国 | [13] |
| 脳卒中後肩手症候群I期 | 神経障害性 | リハビリ訓練 | VAS MD −1.68(−2.08, −1.28) | GRADE 低/I²=89%・全32試験が中国 | [14] |
| 原発性月経困難症 | 内臓性 | イブプロフェン | VAS差 −0.87(−1.32, −0.42)(6か月) | 階層D/非盲検・治療終了時は差なし | [15] |
| 原発性月経困難症 | 内臓性 | 各種(メタ解析) | VAS SMD −0.98(−1.15, −0.81) | 階層D/盲検化報告ゼロ・総有効率の記述に不整合 | [16] |
| 慢性腰痛 | 混合 | 西洋薬 | VAS −1.69(−2.40, −0.98) | GRADE 非常に低〜低/統計指標の表記に不整合 | [17] |
| 腰椎椎間板ヘルニア | 混合 | 従来灸/薬物+鍼 | M-JOA 3.8(2.6) 対 7.9(3.0) 対 8.5(2.9)(2週) | 階層D/著者自身が実施・検出バイアスを指摘 | [18] |
| 線維筋痛症など | 侵害可塑性 | — | 該当する試験に到達できなかった | 不明 | — |
| (参考)慢性腰痛への鍼 | 混合 | 偽刺激 | VAS MD −9.22(−13.82, −4.61)/0-100 | Cochrane 低/臨床的閾値に未達 | [19] |
7-2 この表を割り引く四つの理由
- 1. 対照の厳しさが揃っていない
- 偽灸対照で得られた差([10])と、無治療・通常ケア対照で得られた差([11][14])と、実薬対照で得られた差([15])は、同じ土俵の数字ではない。対照が緩いほど効果量は大きく出る。表の中で効果量が大きい行ほど、対照が緩い傾向がある。
- 2. 実施国が偏っている
- 本書が引用したメタ解析のうち、[13][14][16][20] は含まれた試験の全数が中国で実施されている。[12] は39試験中32試験である。特定の国から一貫して陽性結果が報告される現象は、この分野で繰り返し指摘されてきた。
- 3. 異質性が制御されていない
- I² が 89〜98% の統合値が並んでいる。これは含まれた試験の結果がほとんど一致していないことを意味する。[20] ではメタ回帰でも異質性の原因を特定できなかった[20]。『灸と痛みの生理学①』第9章で述べたとおり、「灸」という語が物理的に異質な複数の介入を束ねていることが一因でありうる。
- 4. 出版バイアスが検出されている
- [12][13][14][20] でファネルプロットの非対称またはEgger検定による出版バイアスが報告されている。陰性結果の試験が発表されていない可能性が高い。
この表から施術者が持ち帰るべきは、個々の数値ではなく順序である。もっとも厳格に検証されているのは変形性膝関節症であり、そこですら根拠は単一の二重盲検試験に依存している。神経障害性疼痛では確実性が「低」以下であり、侵害可塑性疼痛では根拠が存在しない。患者への説明は、この順序に従って強さを変えるべきである。
08偽灸は作れるのか
灸の臨床研究における最大の技術的障害は、盲検化である。熱は感じられる。感じられる刺激で、患者に「本物かどうか分からない」状態を作れるのか。この問いに対する現時点での答えは、条件つきの「作れる」である。
8-1 偽灸デバイスの原理
Zhaoら(2006年)は、感冒予防を対象とした二重盲検・プラセボ対照試験のなかで偽灸デバイスの検証を行った[22]。実灸と偽灸の艾炷は、外観・燃焼過程・燃焼後の残渣が互いに似ているが、偽の基部は艾から生じる熱と煙を遮断して皮膚に到達させない構造をとる。
同じ原理のデバイスが、第1章で扱ったZhaoら(2014年)の変形性膝関節症試験で用いられた[10]。そこでの実測は、実灸 49.8℃/偽灸 40.9℃ であった。
8-2 盲検化はどこまで成立したか
| 推測 | 実灸群(n=55) | 偽灸群(n=55) |
|---|---|---|
| 正しく当てた | 18 | 22 |
| 誤って推測した | 20 | 15 |
| 分からない | 17 | 18 |
全体で正答 36%、誤答 32%、不明 32%。群間差はなかった(Fisher の正確検定 p = 0.565)[10]。四択でなく三択であることを考えれば、偶然の水準(33%)と区別できない。盲検化は統計的には成立していたと判断される。
8-3 それでも残る問題
三つある。
- 温度差が侵害受容域をまたいでいる。40.9℃ は『灸と痛みの生理学①』第2章の侵害受容域(およそ40〜45℃以上)の下端であり、49.8℃ は明確にその上である。すなわち偽灸は「何もしていない」のではなく、非侵害性の温熱刺激を与えている。この試験で検出された差は「灸 対 無刺激」ではなく「侵害性の熱 対 非侵害性の熱」の差である。
- 被験者の経験が結果を左右する。Zhaoらは、被験者が灸に不慣れであったことを盲検化成功の理由として挙げている[10]。灸の経験がある患者では同じ盲検化は成立しない可能性が高い。
- 多くの試験でそもそも使われていない。Kimら(2014年)は「現時点では、生理学的に完全に不活性でありながら本物の灸に似て見える適切な偽デバイスが利用できないことが分かった」と述べて偽対照を断念している[11]。Yuanら(2019年)のメタ解析では、39試験中で二重盲検を採用したのは 2 試験のみであった[12]。
この章の内容は、施術そのものよりも論文の読み方を変える。「偽灸対照」と書かれていたら、次を確認する。偽灸の温度は測られているか。盲検化の検証は行われたか。被験者に灸の経験はあったか。この三つが書かれていない「偽灸対照試験」は、実質的に非盲検試験として読むべきである。
09安全性——熱傷と有害事象の実数
灸は物理的に組織を傷つけうる手技である。鎮痛の効果量を論じる以前に、どんな有害事象がどれだけの頻度で起きているかを知っておく必要がある。ここには、臨床試験の中で系統的に記録された貴重な実数がある。
9-1 症例報告の集積
Xuら(2014年)は、灸に関連する有害事象の症例報告を系統的に収集し、24 論文・64 症例を6か国から同定した[21]。
| 種類 | 症例数 |
|---|---|
| 熱傷 | 43 |
| アレルギー | 7 |
| 感染 | 6 |
| 胎児への影響 | 2 |
| 悪心・嘔吐 | 2 |
| その他(咳・悪性腫瘍・眼瞼外反・死亡) | 2 |
国別では中国 51、米国 6、韓国 4、スペイン・日本・イスラエル各 1 であった[21]。著者らは、報告された傷害の一部は真の副作用ではない可能性があること、因果関係の評価が症例ごとに大きく異なることを限界として挙げ、発生率は不明であると結論している[21]。
9-2 臨床試験で系統的に記録された頻度
症例報告では分母が分からない。分母が分かる数値は、有害事象を系統的に記録した臨床試験にしかない。Kimら(2014年)は変形性膝関節症試験の中でこれを記録している[11]。
| 項目 | 実数 |
|---|---|
| 有害事象の総数 | 121件(施灸回数の10.45%) |
| 1件以上を経験した参加者 | 48名/102名(47%) |
| 5件を超えて経験した参加者 | 7名 |
| I度熱傷 | 6件 |
| II度熱傷 | 113件 |
| 全身性(掻痒・倦怠感) | 2件 |
| 重症度:軽度/中等度/重度 | 99/21/1 |
参加者の 47% が何らかの有害事象を経験し、II度熱傷が 113 件記録されている。ただし著者らは、通常ケア群の治療に関連する有害事象は適切に評価されていないため、灸に特有の有害事象の負担を過大評価している可能性があると注記している[11]。
対照的に、Zhaoら(2014年)の二重盲検試験では、実灸群で施術部位に直径約 5 mm の皮膚発赤が 10例 報告されたのみで、いずれも 3日以内 に医療的処置なく消失した[10]。Chenら(2014年)の腰椎椎間板ヘルニア試験(456名)では有害事象の報告はなかった[18]。
9-3 この差をどう読むか
同じ「灸」で、有害事象が 10.45% の試験と、発赤10例のみの試験と、ゼロの試験がある。これは灸の安全性が試験によって違うのではなく、何を有害事象として記録したかが違う可能性が高い。Kimらは施灸1回ごとに記録し、皮膚の変化をII度熱傷として分類した。他の試験が同じ基準で記録していたかは分からない。「有害事象なし」という記述は、有害事象がなかったことの証明ではない。
Xuら(2014年)は、位置・持続時間・艾と皮膚の距離・施術者の習熟度・患者の状態・煙の有無・治療環境が安全性に影響しうると整理している[21]。また、熱傷の多くが新生児・小児・感覚障害のある人に生じていたことが指摘されている[21]。
感覚が低下している部位への施灸は、患者の「熱い」という訴えを安全弁として使えないことを意味する。第2章で扱った神経障害性疼痛の患者には、まさにこの条件が当てはまる場合がある。神経障害性疼痛に対する灸の適応を考えるとき、効果量の議論より先に、その部位の温度覚が保たれているかを確認する必要がある。
10撤回論文とガイドラインの誤り
この章は、灸の効果についての章ではない。誰の数字も検算しなければならないということについての章である。具体例を二つ挙げる。一つは中国発の撤回されたメタ解析、もう一つは日本の診療ガイドラインである。
10-1 撤回されたメタ解析
「温針灸と薬物療法の変形性膝関節症治療における比較:系統的レビューとメタ解析」(Li J, Yang H, Hu T著、Computational and Mathematical Methods in Medicine、2022年、doi:10.1155/2022/3056109)は、2023年 に撤回された[23]。
出版社が挙げた撤回理由は次のとおりである[23]。
- 範囲の不一致
- 報告された研究内容の記述の不一致
- データの利用可能性と記述された研究との不一致
- 不適切な引用
- 意味をなさない、あるいは無関係な内容の混入
- 査読の操作
加えて、施設内倫理委員会(IRB)またはこれに相当する機関による倫理承認、参加者の同意、詳細公表への同意といったヒト被験者研究の報告要件を満たしていなかったことも指摘されている[23]。
この論文は撤回前、「温針灸は経口薬物療法と比較してQOLの改善・WOMACスコアの低下・膝機能の回復・関節痛と硬直の緩和においてより有効である」と結論していた。撤回されるまでの間、この結論は引用可能な状態にあった。
10-2 日本の診療ガイドラインにおける誤り
『腰痛診療ガイドライン2019(改訂第2版)』の鍼治療に関する記載について、森ノ宮医療大学鍼灸情報センターが 2019年6月12日 に誤りを指摘した[24]。指摘された内容は次の四点である。
| # | 内容 |
|---|---|
| 1 | 日本発のメタ解析論文について「本邦からは1編あるのみ」と記載されたが、実際にはもう1編存在し、そちらのほうが文献検索が網羅的で研究の質が高いとされる |
| 2 | 急性腰痛の解析で「改善のプラスマイナスが逆のデータ入力」があり、修正すると統計的有意差をもって鍼治療が優位となる |
| 3 | 慢性腰痛で「5編のメタアナリシス」としながら、鍼治療でない4つのRCT(種の貼付・レーザー・椅子指圧)が混入していた |
| 4 | ヨガに関する引用文献に、記載された医療経済効果の分析・記載が存在しなかった |
この指摘は灸ではなく鍼治療に関するものであり、灸への言及は含まれていない[24]。
10-3 二つの事例が示すこと
方向が正反対であることに注目されたい。撤回されたメタ解析は効果を過大に見せる方向の事故であり、ガイドラインの誤りは効果を過小に見せる方向(符号の逆転により有意差が消えていた)の事故である。
結論だけを引用する態度は、この二種類の事故のどちらにも無防備である。教材・研修・患者説明で数値を用いるときに最低限必要なのは、次の三つの確認である。①その論文は撤回されていないか。②その数値は原著の表に実在するか。③統合値のI²と対照の内容は何か。本書がすべての数値に文献番号と到達可能なURLを付しているのは、読者がこの検算を実行できるようにするためである。
11研究方法論と未解決問題
本書が答えられなかったことを列挙する。抽象的な「今後の研究が待たれる」は書かない。次の研究者が明日着手できる粒度で書く。
11-1 空白リスト
| # | 空白 | なぜ埋まっていないと考えられるか |
|---|---|---|
| 1 | 灸がヒトの痛覚閾値(圧痛閾値・熱痛閾値)をどれだけ変えるか | QSTの設備・訓練が鍼灸の研究環境と重ならない。熱感により被験者盲検化が困難 |
| 2 | 灸がヒトでCPMを誘導するか | 同上。加えて条件刺激と灸の刺激をどう分離するかの設計が難しい |
| 3 | 『灸と痛みの生理学①』第12章の温度反応曲線(炎症性=連続、神経障害性=階段状)がヒトで再現されるか | 複数温度を厳密に制御した多群デザインは、臨床では被験者数と倫理審査の負担が大きい |
| 4 | 侵害可塑性疼痛に対する灸のRCT | IASPの臨床基準が2021年公表であり、既存の試験は層別化していない |
| 5 | 糖尿病性多発神経障害・化学療法誘発性末梢神経障害に対する灸単独の効果量 | これらの領域は鍼の研究が主体で、灸は併用療法の一要素として扱われている |
| 6 | 灸の上行路への作用 | ヒトで上行路を選択的に評価する手法自体が限られている |
| 7 | 日本国内のヒトを対象とした灸の鎮痛アウトカム試験 | 日本の灸研究は物理測定(温度・血流)に強みがあるが、疼痛アウトカムのRCTには到達できなかった |
| 8 | 灸の脳画像研究の絶対数 | Heら(2025年)の整理では、疼痛の鍼灸脳画像研究37編中、灸を用いたものは2編のみ[25] |
| 9 | 透熱灸・直接灸の鎮痛に関する定量データ | 灸痕を伴う手法は倫理審査と盲検化が困難であり、研究が進みにくい構造的理由がある |
11-2 この分野の研究デザインが抱える三つの制約
- 制約1:盲検化と刺激強度がトレードオフになる
- 偽灸を本物らしくするには熱を感じさせる必要があるが、熱を感じさせれば非侵害性温熱刺激という実刺激になる(第8章)。実灸 49.8℃/偽灸 40.9℃ という設定は、この妥協の具体例である[10]。
- 制約2:「灸」が単一の介入名として機能していない
- 本書が引用したメタ解析だけでも、懸灸・隔姜灸・麦粒灸・温針灸・熱敏灸・隔物灸・雷火灸・薬線灸・灯芯灸・天灸・電子灸・モンゴル灸が「灸」として統合されている[13][14]。『灸と痛みの生理学①』第8章の実測では最高温度が 30.1℃ から 64.3℃ まで分布する[4]。物理量の異なる介入を一語で統合している限り、I²は下がらない。
- 制約3:陽性結果の地域的集中
- 本書が引用した灸のメタ解析の多くで、含まれた試験の全数または大半が単一国由来である[12][13][14][16][20]。複数の著者がこれを限界として明記している。この状態では、統合値は「灸の効果」ではなく「特定の研究環境で報告される効果」を推定していることになる。
11-3 結び——本書の答え
冒頭に置いた問いに答える。痛みが末梢から脳へ上り、脳から抑えられるまでの経路のうち、灸はどこに手が届き、どこには届かないのか。
現時点で答えられるのは次のとおりである。灸は末梢終末と一次求心線維に確実に届いている。皮膚C線維を選択的に動員し(『灸と痛みの生理学①』第10章)、局所でATPを放出させ(『灸と痛みの生理学①』第11章)、動物では90分程度の鎮痛を生じる(『灸と痛みの生理学①』第11章)。この作用は痛みの型によって温度依存性が異なり、炎症性では連続的、神経障害性では階段状である(『灸と痛みの生理学①』第12章)。ヒトでも施灸後に脳活動の変化が測定されている(『灸と痛みの生理学①』第13章)。
一方、上行路と下行性疼痛調節系については、ヒトでの定量データが存在しない(『灸と痛みの生理学①』第14章)。臨床アウトカムのデータは豊富だが、確実性は変形性膝関節症を除いて「低」以下であり、侵害可塑性疼痛については根拠そのものがない(第5章・第7章)。
本書の空白リストが示しているのは、灸の価値の低さではない。入口(末梢)と出口(臨床アウトカム)は測られているのに、その間の経路がヒトで測られていないという、この分野の構造である。そしてその構造は、盲検化の困難という一点にかなりの部分を負っている。偽灸の妥当性を高める方法論的な仕事が、この分野の他のどの研究よりも波及効果が大きい。
臨床に差し出せる実利は、『灸と痛みの生理学①』第12章に集約される。効果が出ないときに変えるべき変数は、経穴や壮数だけではない。温度である。そして温度をどう変えるべきかは、目の前の痛みが炎症性なのか神経障害性なのかによって異なりうる。それを最初に見分けることが、本書が伝えたい唯一の手順である。
理解度チェック
本書の内容から7問。選択するとその場で正誤と解説が出ます。設問はすべて本文に記載した報告値・記述に対応しており、各問には該当章へのリンクを付けました。自己確認のための演習であり、資格や技能を証明するものではありません。
変形性膝関節症に対する灸について、本書はどう扱っているか。
本書は効果量を一覧にし、そのうえでなぜ額面どおり受け取れないのかを書く。対照の厳しさが違えば、同じ数値の意味は変わる。根拠:第1章
神経障害性の痛み(帯状疱疹後神経痛・糖尿病性末梢神経障害など)に対する灸のエビデンスの確実性は、本書ではどう位置づけられているか。
系統的レビューやRCTは存在するが、非盲検・小規模・単一国由来という限界を伴う。本書はCochraneの確実性語彙に寄せて低いと位置づけている。根拠:第2章
腰痛に対する灸の研究を読むとき、本書が注意を促していることはどれか。
著者ら自身が、大きな群間差は実施バイアスと検出バイアスによる可能性があると明記している例がある。数値そのものより、その数値がどんな対照と比べて出たかに注意して読む。根拠:第4章
侵害可塑性の痛み(線維筋痛症など)に対する灸について、本書はどう書いているか。
三分類のうち三つ目については、本書は一度も数値を出していない。データがない領域をデータがないと書くことが、この章の役割である。根拠:第5章
偽灸(sham moxibustion)について、正しいのはどれか。
外観・燃焼過程・燃えかすが同一で、台座の断熱層が熱と煙を遮断する偽灸が検証されている。盲検化は不可能ではない。にもかかわらず、この手法は普及していない。ただし断熱層は温熱刺激そのものを与えないため、患者は温感の有無をある程度識別しうる。根拠:第8章
灸の熱傷の頻度が試験によって大きく違うのはなぜか、本書の読み方はどれか。
症例報告の集積と、臨床試験で系統的に記録された頻度には大きな差がある。記録の仕方が違えば、頻度は変わる。根拠:第9章
本書が「撤回論文とガイドラインの誤り」という章を置いている理由はどれか。
撤回されたメタ解析と、『腰痛診療ガイドライン2019』の鍼治療に関する記載の誤りという二つの具体例を挙げている。後者は査読誌に掲載された指摘論文で確認できる。数値を額面どおり受け取れない理由を、抽象論ではなく実例で示す。根拠:第10章
正解 0 / 7問
引用文献
本書の記述はすべて以下の一次・二次資料に基づく。すべての文献に到達可能なURLを付した。非査読の資料は本文中でその旨を明記した。
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- 山下仁, 大川祐世, 増山祥子. 腰痛診療ガイドライン2019の鍼治療に関する誤情報. 全日本鍼灸学会雑誌. 2019;69(3):156.(査読誌に掲載された指摘論文。同内容は森ノ宮医療大学鍼灸情報センターが2019年6月12日にウェブでも公開している) J-STAGE/森ノ宮医療大学 鍼灸情報センター
- He L, Zhou R, Hou S, et al. Exploration of Key Brain Regions Involved in Acupuncture and Moxibustion Analgesia: An Imaging-Based Study. J Pain Res. 2025;18:2051-2067. PMC12009127
灸と痛みの生理学② 第1版 2026年8月17日発行
発行:合同会社YOMOGI BASE(鍼灸エビデンス・ライブラリ)
本書の位置づけ。本書は『灸と痛みの生理学』(第1版・全26章)を読み進めやすい分量に分けた二分冊の②であり、痛みの種類別の臨床エビデンスから未解決問題までを収める。痛みの経路と灸の機序は①に収めた。本書の各章は①の経路地図を前提としているため、①を先に読まれたい。
数値の出所方針。本書に記載した数値は、すべて一次文献に記載された報告値をそのまま引用したものである。編者が計算・推定・丸めた値は含まない。平均±SD と 平均±SE は原著の表記どおりに記した(統一のための書き換えは行っていない)。実測波形でない図には「模式図」と明記した。
調査範囲。英語・日本語・中国語圏を対象に20クエリの検索を行い、25件の一次・二次資料に到達した(2026年8月15日時点)。到達できなかった数値は記載していない。統計指標のラベルに不整合がある文献(第3章・第4章)については、原著の表記を引用したうえでその旨を本文に明記した。分冊にあたり、本書の本文が引用している文献のみを引用文献欄に掲げ、番号は原本の通し番号を保持した。
本書の限界。臨床エビデンスの多くは単一国由来であり、出版バイアスが検出されている。本書に並べた効果量を額面どおり受け取れない理由は第7章に、空白リストは第11章に掲げた。
発行と利益相反。本書の発行者は合同会社YOMOGI BASEである。同社はよもぎ・お灸に関連する商品を扱う事業者であり、この利害関係を開示したうえで、本書では特定の商品・サービス・銘柄に一切言及せず、効能をうたわない編集方針を採っている。文献の選定・数値の引用・空白の明示は、事業上の利害と独立して行った。自社および自社関係者による発信は、査読の有無にかかわらず出典として用いない。
ご利用にあたって。本書は教育・研究目的の学術情報であり、個々の患者に対する診断・治療方針を示すものではない。臨床判断は、施術者自身の責任において、患者の状態と関連法規に基づいて行われたい。
改版履歴。2026年8月15日 原本『灸と痛みの生理学』(全26章)第1版発行。
2026年8月17日 二分冊化にともなう第1版。章番号を分冊内で振り直し、姉妹巻の章への参照はリンクで接続した。
2026年8月17日 出典照合版。全引用文献をNCBI(PubMed/PMC)・Crossref・J-STAGEの書誌レコードに当たって実在と書誌を確認し、著者名・巻号頁を補完した。孫引き・誤帰属・非査読ソースは一次文献に差し替え、差し替えた箇所は引用文献欄に注記した。編者が報告値を超えて述べる示唆は1冊2件までとする規約を序章に明記した。