3分で要点だけ
本文で示した報告値のうち、この教材の骨格になる3点。
- 「不定愁訴」は定義で桁が変わるプライマリケアの身体表現性障害は26.2%、一般住民の身体的苦痛症は2.0%と報告されている
- 症状は入力ではなく推論として記述されている持続する身体症状を予測誤差の処理の失敗とみなすモデルが提案されている
- 見落としの割合は測られている機能性身体症状の診断変更率は診断評価研究で8.8%、追跡研究で0.5%
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訴えを、病名ではなく構造として見る
「不定愁訴」は診断名ではない。検査で説明がつかないという否定形だけを共有する、輪郭のあいまいな集まりである。本書はその輪郭を、国際的な疾患定義・有病率・測定尺度・見落としの疫学という4つの側から測り直す。灸そのものの効果は本書では扱わない。それは第2巻の主題である。
この部を読むと本書に出てくる数値がどの研究デザインから来たものかを、読みながら見分けられるようになる。
00本書の読み方とエビデンスの階層
本書は臨床判断の材料である。読者が最初に受け取るべきものは結論ではなく、結論の疑い方である。この章では、本書に出てくる数値がどの研究デザインから来たものかを見分けるための階層表を先に渡す。
0-1 なぜ「不定愁訴」から始めるのか
鍼灸院の待合室に座っている人の訴えは、教科書の疾患名と一対一で対応していないことが多い。だるい、頭が重い、めまいがする、動悸がする、胃が張る、寝つけない、冷える。検査を受けても異常がないと言われ、それでも症状は続いている。この状態を日本語では長く「不定愁訴」と呼んできた。
問題は、この言葉が診断名ではないことである。診断名でないものについては、有病率も、経過も、治療効果も定義できない。「灸は不定愁訴に効く」という文が検証可能な主張になるためには、まず「不定愁訴」が何を指すのかが決まっていなければならない。本書はその決め方を扱う。
0-2 エビデンスの階層
本書に出てくる数値には強さの差がある。強さは結論の大きさではなく、研究デザインで決まる。以下の階層を、読み進めるあいだ手元に置いてほしい。
| 階層 | デザイン | 典型的な弱点 |
|---|---|---|
| A | 盲検化された無作為化比較試験、系統的レビュー・メタ解析 | 本数が少ない。偽刺激の妥当性が問われる |
| B | 健常者を対象とした実験(客観指標つき) | 対象数が小さい。観察が短時間 |
| C | 動物実験(機序の解明) | 刺激条件がヒト臨床と異なる |
| D | 非盲検の無作為化比較試験、単群前後比較 | 出版バイアスが大きい |
| E | 症例報告、実技者の実測報告(非査読) | 査読がない。ただし測定条件が詳しいことがある |
本書の第I部から第IV部で扱う疫学・測定・見落としの数値は、主として階層Aである。第II部の機序モデルは階層Bと理論研究であり、断定を避けている。日本語文献の一部は階層DまたはEであり、その都度本文中で明示する。
0-3 本書が扱わないこと
灸の効果は本書では扱わない。効果を論じるには、まず対象と尺度が要る。本書はその対象と尺度を用意する巻である。灸のエビデンスそのものは第2巻『灸の臨床|不定愁訴② エビデンスと臨床判断』で扱う。
本書には「今回の調査範囲では見出せなかった」という記述が繰り返し出てくる。これは調査不足の告白ではなく、教材の一部である。空白の位置が分かっていることは、埋まっていると誤解しているよりも臨床的に安全である。
「不定愁訴」が指しているもの
同じ患者が、日本の鍼灸院では「不定愁訴」、英語圏の総合診療では「MUS」、精神科では「身体症状症」と呼ばれる。呼び名が違うだけではない。含まれる人の範囲が違う。
この部を読むと「不定愁訴」「MUS」「身体症状症」「身体的苦痛症」の範囲の違いを、有病率の数字とともに説明できるようになる。
01日本語の「不定愁訴」と国際的な疾患概念のずれ
「不定愁訴」に正確に対応する国際的な用語は存在しない。近い概念は複数あり、それぞれ包含する範囲が異なる。この章では、その対応関係を先に整理する。
1-1 4つの近縁概念
- MUS(medically unexplained symptoms/医学的に説明されない症状)
- 器質的疾患では十分に説明できない身体症状を指す記述的な呼び方。症状の数や苦悩の程度を問わないため、最も広い範囲を含む。診断カテゴリではない。
- 身体表現性障害(somatoform disorders)
- DSM-IVおよびICD-10の診断カテゴリ。「医学的説明がつかないこと」を診断の要件に置いていた点に、後述する構造的な弱点がある。
- 身体症状症(SSD/somatic symptom disorder)
- DSM-5で導入された診断。説明がつくかどうかを問わず、症状に対する思考・感情・行動の過剰さを要件に置く。
- 身体的苦痛症(BDD/bodily distress disorder)
- ICD-11で導入された診断。症状への過度の注意と、それによる機能障害を要件に置く。SSDとは基準の指定に重要な違いがある[2]。
1-2 「説明がつかない」を診断要件にすることの問題
旧来の身体表現性障害は、器質的説明の不在を診断の柱にしていた。この設計には2つの弱点がある。第一に、検査技術が変われば診断が変わる。第二に、患者に「気のせい」という含意が伝わりやすい。DSM-5とICD-11がいずれもこの柱を外し、症状そのものへの反応の側に基準を移したのは、この弱点への対応である[2]。
日本語の「不定愁訴」は、この移行の前の枠組みに近い。訴えが多彩で、検査で説明がつかない、という否定形の定義のままである。したがって、国際的な研究の数値をそのまま「不定愁訴」に当てはめると、範囲がずれる。
患者が「どこも悪くないと言われた」と語るとき、それは診断の伝達であって、症状の否定ではない。施術者が用語のずれを理解していれば、「異常がないこと」と「症状がないこと」を同じ意味で扱わずに済む。逆に、施術者まで否定形の枠組みで受け取ると、記録に残せるものが何もなくなる。
02身体症状症と身体的苦痛症——2つの新しい定義
DSM-5のSSDとICD-11のBDDは、同じ問題意識から生まれながら、基準の指定が異なる。その違いは、拾われる人数の差として現れる。
2-1 共通しているもの
両者は、医学的説明の有無を診断要件から外した点で一致している。身体症状が存在し、それに対する反応(過度の注意・不安・受診行動)が過剰であり、その状態が持続して生活機能を損なっている——この構造が診断の骨格である[2]。
2-2 違いが数に出る
香港・フィリピン・カタールの一般住民を対象とした世界精神保健調査(合計18,105人)では、両者の点有病率が同時に測られた。BDDは2.0%、SSDは3.5%、いずれかに該当する者は4.1%であった[2]。同じ集団を同じ時点で測っても、基準の指定が違えば拾われる人数は1.75倍違う。
この調査ではさらに、女性が男性の2倍該当しやすいこと、年齢とともに有病率が上がること、全般性不安症・パニック症・心的外傷後ストレス症・うつ病・双極スペクトラム症との併存が有意であり、その関連はSSDよりBDDで一貫して強いことが報告されている[2]。
役割機能への影響も測られた。過去30日間の健康を理由に役割を果たせなかった日数(days out of role)は、併存する精神疾患と慢性身体疾患を調整したうえで、BDDのみの群が4.7日、SSDのみの群が3.1日であり、両者の差は有意であった(p<0.001)[2]。
| 指標 | BDD(ICD-11) | SSD(DSM-5) |
|---|---|---|
| 点有病率 | 2.0% | 3.5% |
| いずれかに該当 | 4.1% | |
| 調整後の役割喪失日数(30日間) | 4.7日 | 3.1日 |
| 精神疾患との併存の強さ | より強い | より弱い |
「不定愁訴の人が来た」と言うとき、施術者はこの2つの層のどちらを想定しているかを区別できる。生活が回らなくなっている層(BDD相当)は、月に4〜5日を失っている集団である。施術で拾うべきアウトカムは症状の強さだけではなく、失われている日数でありうる。
03何人いるのか——定義で桁が変わる
有病率の数字は、対象集団と定義の両方で変わる。桁が変わるほど変わる。この章の目的は、どの数字を引用すべきかを判断できるようにすることである。
3-1 プライマリケアでの推定
1990年から2012年に実施された32研究・70,085人(15〜95歳)を統合した系統的レビューとメタ解析では、プライマリケア受診者における身体表現性障害(DSM/ICD基準)の点有病率は26.2%(95%信頼区間 19.1〜33.3、I²=98%)と報告された。方法論的な質の高い研究に限ると34.8%(95%CI 26.6〜44.6、I²=92%)に上がる[1]。
「1つ以上の医学的に説明されない症状」という広い定義では、点有病率40.2%(95%CI 0.9〜79.4、I²=98%)、12か月有病率49%(95%CI 18〜79.8、I²=98%)である[1]。信頼区間の幅に注意してほしい。0.9%から79.4%まで開いている推定は、点推定値だけを引用してはならない類の数字である。
3-2 診断カテゴリ別に分けると
| 診断カテゴリ | 有病率 | 95%信頼区間 | I² |
|---|---|---|---|
| 身体化障害(DSM-IV) | 0.8% | 0.3〜1.4 | 87% |
| 身体化障害(ICD-10) | 4.7% | 3.6〜5.8 | 99% |
| 身体化障害(質問票による) | 12.8% | 10.2〜15.3 | 96% |
| 鑑別不能型身体表現性障害(DSM-III-R/IV) | 38.1% | 13.1〜63.1 | 97% |
| 鑑別不能型身体表現性障害(ICD-10) | 9.3% | 6.6〜12.0 | 76% |
| 身体表現性自律神経機能不全(ICD-10) | 9.4% | 3.0〜15.7 | 93% |
| 慢性疼痛性障害(ICD-10) | 8.1% | 3.9〜12.3 | 92% |
| 多身体表現性障害 | 12.6% | 9.1〜16.1 | 93% |
同じ「身体化障害」でも、DSM-IVの厳格な基準では0.8%、ICD-10では4.7%、質問票では12.8%になる。診断の道具を替えただけで16倍動く。著者ら自身が、統合された解析の92%でI²が上位四分位を超えていたこと、方法論的な質は全体として中等度にとどまることを限界として明記している[1]。
3-3 地域住民での推定は1桁小さい
一方、前章で見た一般住民調査でのBDDは2.0%、SSDは3.5%である[2]。プライマリケアの26.2%と地域住民の3.5%は矛盾していない。医療機関を訪れている集団を測るか、地域に住んでいる人全体を測るかの違いである。
横軸は報告された点有病率。上2本は文献[1](プライマリケア受診者)、下2本は文献[2](一般住民)による。異なる集団・異なる定義の報告値を並べたものであり、直接比較する目的の図ではない。
「日本人の◯割が不定愁訴」という言い方は、出典を確かめずに使えない。使うなら「プライマリケア受診者の26.2%が身体表現性障害の基準を満たしたという報告がある(32研究・70,085人、ただしI²=98%)」と、対象・基準・不均一性まで含めて言う。施術者がこの精度で話せることは、患者に対しても、医療者に対しても、信用の土台になる。
訴えはどう作られるか
症状が「説明されない」のは、説明する枠組みが臓器の側にしかないからである。近年の神経科学は、症状の生成を末梢入力の受け取りではなく、脳の推論として記述する方向へ動いた。灸という温度刺激がなぜこの領域に関係しうるのかも、ここで見えてくる。
この部を読むと症状が説明されないことと、症状が実在しないことを、別のこととして語れるようになる。
04症状は入力ではなく推論である
持続する身体症状を「推論の失敗」として記述するモデルが、欧州の研究ネットワークから提案されている。このモデルは、施術という行為の位置づけを変える。
4-1 予測処理モデル
2018年に欧州の研究グループ(EURONET-SOMA)が提示したモデルでは、脳は感覚入力を受動的に待つ装置ではなく、能動的に予測を立てる推論装置として描かれる。脳は予測と感覚入力を絶えず突き合わせ、その差(予測誤差)を最小化しようとする[3]。
予測誤差を減らす方法は2つある。予測を生み出しているモデルの側を修正するか、あるいは感覚入力の側を変えるかである。内受容感覚の場合、後者は自律神経活動の変化を通じて行われる[3]。
このモデルでは、持続する身体症状は「推論の失敗(failures of inference)」として記述される。そして期待という臨床でよく知られた要因が、症状が生じたあとの増幅要因としてだけでなく、症状の知覚そのものの成立段階に位置づけられる[3]。
4-2 このモデルの位置づけ
これは理論モデルであり、治療効果を証明した試験ではない。著者ら自身、確立した治療の新しい解釈と、仮想現実技術のような新しい選択肢の両方を、このモデルからの示唆として提示するにとどめている[3]。本書はこのモデルを、症状を理解する枠組みとしてのみ扱う。
予測処理モデルが臨床にもたらす最大の帰結は、「入力がなければ症状もないはずだ」という前提が成り立たないことである。検査に異常がないことと、感じている症状が実在することは、このモデルでは矛盾しない。
施術は末梢に入力を与える行為である。予測処理モデルに立てば、その入力は「異常を正す」ためだけに働くのではなく、患者が自分の身体について立てている予測を更新する材料としても働きうる。ただしこれは仮説であり、灸でそれが起きたことを示す試験は本書の調査範囲では見出せなかった。この点は第2巻で改めて扱う。
05内受容感覚——体の状態を感じる系
だるさ、冷え、胸の詰まり、腹の張り。不定愁訴で語られる感覚の多くは、触覚でも視覚でもなく内受容感覚に属する。この系の解剖学的な輪郭を押さえておく。
5-1 「身体の生理学的状態の感覚」
霊長類とヒトを対象とした機能解剖学の研究から、身体の生理学的状態のあらゆる側面を表現する求心性の神経系が記述されている。この系は「物質としての私(the material me)」の表現を構成し、主観的な感情・情動・自己意識の基盤となりうると論じられている[4]。
この枠組みで重要なのは、温度感覚が触覚ではなく内受容感覚の一部として扱われる点である。皮膚の温かさは、外界の物体の性質を知る手がかりであると同時に、自分の身体の状態を知らせる信号でもある。
5-2 前島皮質
前島皮質(anterior insular cortex)は、腸管の伸展から性的絶頂、喫煙渇望から母性愛、意思決定から突然の洞察まで、きわめて広範な状態と行動に関与することが報告されている領域である。内受容感覚の再表現という機能が、あらゆる主観的感情への関与の基盤の一つになりうると論じられている[5]。
灸の刺激が脳のどの領域を動かすかについては、本ライブラリの『灸と神経生理学② 脳の反応』で扱っている。本書では、温度覚が内受容感覚の入口であるという解剖学的事実だけを持ち帰る。
患者が「冷える」と訴えるとき、それは温度計で測れる皮膚温の報告ではなく、内受容感覚の報告である。皮膚温を測って正常だったことは、訴えを否定する根拠にならない。冷え症の訴えと実測値の関係については、本ライブラリの『灸の臨床|冷え症 訴えを測る』で扱っている。
06無害な温度から痛みが生まれるとき
温度覚そのものが予測符号化で処理されていることを、計算モデルと脳画像で示した研究がある。灸を扱う教材にとって、これは中核的な知見である。
6-1 サーマルグリル錯覚
無害な温刺激と冷刺激を皮膚上で交互に並べて同時に与えると、灼けるような痛みが生じる。この現象はサーマルグリル錯覚と呼ばれ、生じる痛みは中枢性神経障害性疼痛に似ていると報告されてきた[7]。組織はまったく損傷していない。それでも痛みが生じる。
6-2 温度覚学習の計算モデル
2025年に報告された研究では、計算モデリングによって、脳が温度変化についての信念をその不確実性に応じて更新する確率的な予測符号化の枠組みで働いていることが示された。そしてこの期待が、無害な熱刺激に対する痛みの誤知覚(サーマルグリル錯覚)を直接に調節していた[6]。
さらに定量的な微細構造脳画像により、不確実性に駆動された学習と意思決定に関わる計算パラメータの個人差が、楔前部・後帯状回・小脳・大脳基底核・脳幹といった領域の微細構造に反映されていることが示された[6]。著者らはこの枠組みを、慢性疼痛における温度感覚症状の成因を理解するための土台として位置づけている[6]。
この研究の対象は健常者であり、灸ではない(階層B)。示されたのは「温度覚が予測符号化で処理されている」ことであって、「灸が予測を書き換える」ことではない。両者を混同してはならない。
同じ温度刺激が、その人が何を予期しているかによって、快にも不快にも、無害にも痛みにもなりうる。施灸の前に何をどう説明するかは、礼儀の問題ではなく、刺激の受け取られ方そのものに関わる変数である。ただし灸でこれを検証した試験は本書の調査範囲では見出せなかった。
07侵害可塑性疼痛という別の言い方
同じ現象を、リウマチ学は別の語彙で記述してきた。用語が違うだけで中身が同じなのか、違うのかを見分けておく。
7-1 線維筋痛症からの系譜
線維筋痛症はかつて線維炎(fibrositis)と呼ばれていたが、全身性の炎症と組織損傷を欠くことから自己免疫疾患と区別されるようになった。現在では、侵害受容性疼痛(末梢の損傷や炎症による痛み)と神経障害性疼痛に続く第3の機序として、侵害可塑性疼痛(nociplastic pain)が位置づけられている[8]。
7-2 中核症状
侵害可塑性疼痛の主要な症状は、炎症や損傷の証拠がない領域にも及ぶ広範な痛みであり、そこに疲労・睡眠障害・記憶の問題が伴う。痛みだけでなく、光のまぶしさ、音やにおいの不快さといった非疼痛刺激の増幅も客観的に確認されている。この状態は外傷・感染・持続的ストレスなど多様な契機で誘発されうる[8]。
7-3 治療の位置づけ
侵害可塑性疼痛に対して最も有効な薬物療法は、三環系抗うつ薬・SNRI・ガバペンチノイドといった非オピオイドの中枢作用性鎮痛薬である。ただし治療の主軸は薬物ではなく、活動・運動の改善、睡眠の改善、心理的併存症への対応を含む多様な非薬物的統合療法であるとされている[8]。
| 語彙 | 出自 | 強調している点 |
|---|---|---|
| MUS/不定愁訴 | 総合診療・日本の臨床 | 器質的説明が得られていないこと |
| SSD/BDD | 精神医学の診断分類 | 症状への反応と機能障害 |
| 侵害可塑性疼痛 | リウマチ学・疼痛医学 | 中枢神経系による増幅の機序[8] |
侵害可塑性疼痛の枠組みでは、活動・睡眠の改善が治療の主軸に置かれている[8]。施術がその主軸を代替すると考えるのではなく、患者が活動と睡眠を立て直すための負担軽減として位置づけるほうが、証拠の構造に合っている。
測る
不定愁訴の施術で最も欠けやすいのは、効いたかどうかを判定する物差しである。ここでは実際に使える尺度を、開発時の報告値とともに並べる。この部が本書の中核である。
この部を読むと施術の効果を判定できる尺度を選び、いつ測るかを自分で決められるようになる。
08症状の重さを数で持つ——SSS-8
身体症状の負担を8項目で測る尺度が、一般住民2,510人のデータで検証されている。重症度の区切りと、それが医療利用とどう対応するかまで報告されている点で、施術記録に組み込みやすい。
8-1 開発とその対象
SSS-8(Somatic Symptom Scale-8)はPHQ-15の8項目版として開発された自己記入式の尺度である。2012年6月15日から7月15日にドイツで実施された全国代表標本調査(13歳超の2,510人)で、信頼性・妥当性・重症度区分・参照値が検証された[9]。
内的整合性はCronbach α = 0.81。因子構造は消化器・疼痛・疲労・心肺という4つの側面を反映していた[9]。
8-2 他の指標との関連
| 関連する指標 | 係数 | 95%信頼区間 |
|---|---|---|
| 抑うつ(PHQ-2) | r = 0.57 | 0.54〜0.60 |
| 不安(GAD-2) | r = 0.55 | 0.52〜0.58 |
| 一般的健康状態(VAS) | r = −0.24 | −0.28〜−0.20 |
| 12か月の医療利用 | 発生率比 1.12 | 1.10〜1.14 |
8-3 重症度の区切り
百分位順位に基づいて、次の5段階が設定されている[9]。
| 区分 | 得点 |
|---|---|
| なし〜最小 | 0〜3点 |
| 低い | 4〜7点 |
| 中等度 | 8〜11点 |
| 高い | 12〜15点 |
| 非常に高い | 16〜32点 |
そして重症度区分が1段階上がるごとに、医療機関の受診回数は53%(95%CI 44〜63)増加していた[9]。これは、症状の重さが医療行動として外に現れることを示す数値である。
初診時と、4週後・8週後にSSS-8を取るだけで、施術者は「なんとなく良さそう」を「12点から8点へ、区分が1段下がった」に置き換えられる。区分が1段変わることは、報告値の上では受診行動の53%の差に対応する大きさである。無料で使え、8項目で1分もかからない。
09負担と苦悩を分けて測る——SSD-12との組み合わせ
SSS-8は症状の重さを測る。しかしDSM-5のSSDは、症状の重さではなく症状への反応を要件にしている。両者を分けて測ると、拾える精度が上がる。
9-1 単独では中等度の精度にとどまる
心身医療の外来を受診した372人(男性31.2%、平均年齢39.3歳、SD 13.6)を対象に、質問票の得点と診断面接によるSSD判定を突き合わせた研究がある。この集団では56.2%がSSDの基準を満たしていた[10]。
各質問票単独の診断精度(曲線下面積 AUC)は次のとおりで、いずれも中等度にとどまった[10]。
| 質問票 | AUC | 95%信頼区間 |
|---|---|---|
| PHQ-15(身体症状の負担) | 0.70 | 0.65〜0.76 |
| SSS-8(身体症状の負担) | 0.71 | 0.66〜0.77 |
| SSD-12(症状への思考・感情・行動) | 0.74 | 0.69〜0.80 |
| PHQ-15 + SSD-12 | 0.77 | 0.72〜0.82 |
| SSS-8 + SSD-12 | 0.79 | 0.74〜0.84 |
9-2 最適な組み合わせ閾値
最適な組み合わせの区切りは、PHQ-15またはSSS-8で9点以上、かつSSD-12で23点以上であり、このときの感度は69%、特異度は70%であった[10]。
感度69%・特異度70%は、スクリーニングとしては控えめな性能である。著者らもこれを「SSDのリスクがある人を同定する、簡便で時間と費用の効率がよい手段」と位置づけており、診断そのものとは書いていない[10]。
身体症状の負担(SSS-8)と、症状への苦悩(SSD-12)は別の量である。前者だけが高い人と、両方が高い人では、必要な関わりが違う。施術者が診断をつけることはないが、この2軸で記録することはできる。
症状の点数が下がっていないのに患者が「楽になった」と言うことがある。逆に点数が下がったのに不安が減っていないこともある。2軸で測っていれば、そのずれを記録に残せる。ずれは施術の失敗ではなく、次に何を扱うべきかの情報である。
10日本の道具——不定愁訴カルテと不定愁訴指数
日本の鍼灸領域にも、不定愁訴を数として扱う道具がある。ただしその検証の水準は、前2章の尺度とは大きく異なる。その差を明示して紹介する。
10-1 不定愁訴カルテ
全日本鍼灸学会研究委員会の不定愁訴班(黒野保三班長)が作成した「不定愁訴カルテ(健康チェック表)」がある。この表を用いて初診患者703名を分析した報告が1996年に公表されている[11]。
703名の内訳は男性285名・女性418名であった。重症度分類では、軽症293名(41.7%)、中等症265名(37.8%)、重症100名(14.2%)である。この3群の合計は658名であり、残りは分類の対象外であった[11]。
訴えの分類は4カテゴリで、自律神経失調性項目26.1%、神経症性項目20.7%、うつ状態性項目25.6%、その他の項目27.6%と、ほぼ均等に分布していた[11]。
| 区分 | 人数・割合 |
|---|---|
| 総数 | 703名(男285・女418) |
| 軽症 | 293名(41.7%) |
| 中等症 | 265名(37.8%) |
| 重症 | 100名(14.2%) |
| 自律神経失調性項目 | 26.1% |
| 神経症性項目 | 20.7% |
| うつ状態性項目 | 25.6% |
| その他の項目 | 27.6% |
10-2 不定愁訴指数を用いた報告
同じ枠組みで、睡眠障害に伴う不定愁訴に対する鍼治療を検討した報告がある。対象は6例、全身調整の基本穴に局所治療を加え、単刺術を14〜21回実施したもので、6例の不定愁訴指数は有意に減少し、効果判定は著効1例・有効5例、睡眠障害は全例で改善したと報告されている[12]。
この報告は対照群を置かない6例の症例集積である(階層E相当)。前後で指数が下がったことは、施術の効果を意味しない。自然経過(第16章)、平均への回帰、期待の効果(第2巻)がいずれも同じ方向に働きうる。ここで引用したのは、日本の鍼灸領域が不定愁訴を数として扱おうとしてきた事実を示すためであり、効果の根拠としてではない。
10-3 日本語圏の空白
不定愁訴に対する鍼灸で、対照群を置いた比較試験は、今回の調査範囲の日本語文献では見出せなかった。日本語圏にあるのは症例集積と観察研究であり、それを国際的な尺度で測り直した研究も見出せなかった。
不定愁訴カルテは、訴えの内訳を4カテゴリで見渡すための道具としては今も使える。ただし治療効果の判定に使うなら、国際的に検証された尺度(SSS-8など)と併用するほうがよい。前者は自院の記録として、後者は他者に通じる言葉として働く。
11患者が項目を決める尺度——MYMOP
訴えが多彩で、しかも人によって中心が違うとき、既製の尺度では中心を外すことがある。患者自身に測る項目を決めてもらう尺度が、まさにこの集団を対象とした試験で使われている。
11-1 MYMOPとは
MYMOP(Measure Yourself Medical Outcome Profile)は、患者が自分にとって最も重要な症状と活動を自分で挙げ、それを継続的に評価する尺度である。ロンドンの4つの一般診療所で行われた無作為化比較試験(CACTUS研究)の主要評価項目として用いられた[13]。
11-2 CACTUS研究の設計
対象は、年に8回以上かかりつけ医を受診し、医学的に説明されない身体症状(MUPS)をもつ成人80名。女性80%、平均年齢50歳、多民族構成。訴えの59%は筋骨格系で、65%は1年を超えて持続していた[13]。
介入は個別化した五行鍼灸を12回以上。鍼群には直ちに、対照群には26週後に実施する待機デザインである[13]。
11-3 結果
26週時点のMYMOPは、ベースラインと比べて鍼群で平均1.0(95%CI 0.4〜1.5)、対照群で0.6(95%CI 0.3〜0.9)改善した。ベースラインを調整した群間差は−0.6(95%CI −1.1〜0、p = 0.05)であった[13]。
ただし欠測値を補完すると群間差は−0.4(95%CI −0.9〜0.1、p = 0.12)に縮小し、有意ではなくなった[13]。他の副次評価項目は、幸福感(W-BQ12)で4.4(95%CI 1.6〜7.2、p = 0.002)、EQ-5D指数で0.03(95%CI −0.11〜0.16、p = 0.70)、受診率比0.90(95%CI 0.70〜1.15、p = 0.4)であった[13]。
| 指標 | 群間差 | 95%信頼区間 | p値 |
|---|---|---|---|
| MYMOP(主要) | −0.6 | −1.1〜0 | 0.05 |
| MYMOP(欠測補完後) | −0.4 | −0.9〜0.1 | 0.12 |
| 幸福感 W-BQ12 | 4.4 | 1.6〜7.2 | 0.002 |
| EQ-5D指数 | 0.03 | −0.11〜0.16 | 0.70 |
| 受診率比 | 0.90 | 0.70〜1.15 | 0.4 |
この試験は鍼であって灸ではない。また対照は待機群であり、偽鍼ではない。したがって、ここで見えている差には施術に伴うあらゆる非特異的要素が含まれている。それでも主要評価項目はp = 0.05であり、欠測を補完すると有意でなくなった。著者らの結論は健康状態と幸福感の改善が12か月持続したというものだが、主要評価項目の頑健性は高くない[13]。
MYMOPの発想——測る項目を患者に決めてもらう——は、尺度そのものを導入しなくても使える。初診時に「何がどうなったら、来てよかったと思えますか」を1つか2つ書き取り、その項目を毎回0〜6で聞く。これだけで、多彩な訴えの中に判定可能な軸が立つ。
12何を測ると施術判断が変わるか
尺度は増やせばよいものではない。ここまでの4つの道具を、施術判断が実際に変わる場面に割り当てる。
12-1 判断が変わる場面ごとの割り当て
| 尺度 | 測っているもの | 変わる判断 |
|---|---|---|
| SSS-8[9] | 身体症状の負担(8項目・0〜32点) | 継続か中止か。区分が動いたかで見る |
| SSD-12[10] | 症状への思考・感情・行動 | 症状に触れるか、生活の組み立てに触れるか |
| 不定愁訴カルテ[11] | 訴えの内訳(4カテゴリ) | どの系統の訴えが中心かの把握 |
| MYMOP[13] | 患者が選んだ症状と活動 | 何をもって「良くなった」とするかの合意 |
12-2 測る間隔
本書で引用した試験の観察期間は、CACTUS研究が26週と52週[13]、SSS-8の医療利用は12か月[9]である。数週間で判定を下す設計の研究は、この領域では中心的ではない。第16章で見るとおり、この集団の自然経過は月単位で動く。
毎回の施術ごとに点数を取ると、日々の揺れを効果と読み違える。初診・4週・8週・12週のように区切って取り、区切りごとに継続の可否を患者と一緒に決める。判定の間隔をあらかじめ決めておくことは、施術者にとっても、際限のない通院を勧めない歯止めになる。
見落としを防ぐ
不定愁訴を引き受けるとき、施術者が最も恐れるのは器質疾患の見落としである。この恐れは正しい。ただし恐れの大きさは、実際の頻度と釣り合っている必要がある。
この部を読むと器質疾患の見落としへの恐れを、実際の頻度と釣り合った大きさで扱えるようになる。
13器質疾患はどれくらい見落とされるか
「機能性の症状」と判断された患者が、後に器質疾患だったと分かる割合は測定されている。しかもその値は、いつ測るかで大きく変わる。
13-1 2つの異なる数字
1980年1月から2014年7月までに発表された文献を対象とした系統的レビューとメタ解析では、機能性身体症状(FSS)と最初に診断された成人患者のうち、その症状を説明する器質疾患が後に判明した割合が推定された[14]。
診断評価研究(6研究・計1,804人)では8.8%(95%CI 1.0〜22.2、p = 0.007)、自然経過を追跡した研究(16研究・計2,440人)では0.5%(95%CI 0.01〜1.5、p = 0.03)であった[14]。
| 研究の種類 | 研究数・人数 | 診断変更の割合 | 95%信頼区間 |
|---|---|---|---|
| 診断評価研究 | 6研究・1,804人 | 8.8% | 1.0〜22.2 |
| 追跡研究 | 16研究・2,440人 | 0.5% | 0.01〜1.5 |
13-2 この2つの数字の意味の違い
診断評価研究は、改めて系統的な検査を行ったときに何%で診断が変わるかを見ている。追跡研究は、通常の経過観察のなかで何%が後に器質疾患と判明するかを見ている。前者は「もう一度きちんと調べたら見つかる分」、後者は「時間が経てば現れる分」に対応する。
著者らは、部分的または部分的に関連する診断が見つかることは稀であり、特定の身体疾患が系統的に見落とされている様子はなかったと述べている。結論は「FSSと診断された患者における器質疾患の割合は比較的小さいが、無視できるものではない」である[14]。
施術者が担うのは、追跡研究の側の0.5%ではなく、時間の経過とともに現れる変化を拾う役割である。初診時に器質疾患を除外するのは医師の仕事であり、施術者の仕事は「経過中に何かが変わったかどうか」を見張ることである。この分担を取り違えると、必要のない検査を勧めるか、必要な変化を見送るかのどちらかに転ぶ。
14誤診率は下がったのか——転換症状の歴史
「心因性と言われた人が実は病気だった」という物語は、医学史のなかで実際に起きたことである。ただしそれがいつの話かは、数字で確認できる。
14-1 27研究・1,466人の追跡
器質疾患では説明されない麻痺・けいれん発作・感覚症状(いわゆる転換症状)について、27研究・計1,466人、追跡期間の中央値5年の系統的レビューが行われている[15]。
| 年代 | 誤診率 | 95%信頼区間 |
|---|---|---|
| 1950年代 | 29% | 23〜36 |
| 1960年代 | 17% | 12〜24 |
| 1970年代 | 4% | 2〜7 |
| 1980年代 | 4% | 2〜6 |
| 1990年代 | 4% | 2〜6 |
1970年以降の研究における誤診率はおよそ4%で安定しており、それ以前からの低下は有意であった(p < 0.02)。変量効果モデルによる全体推定は4.2%である[15]。著者らは、誤診への懸念は歴史的には正当だったが、現在では不必要な検査と治療の遅れを招かないよう是正されるべきだと結論している[15]。
「心因性とされた人の3割が実は器質疾患だった」という話は、1950年代の数字である。1970年代以降のデータで語るなら、この値はおよそ4%であり、以後30年間ほぼ動いていない[15]。
誤診の恐れを理由に、患者に検査の上塗りを勧める前に、この年代推移を思い出す。過剰な検査は安心を与えず、むしろ症状への注意を強める方向に働きうる(第4章の予測処理モデル)。施術者が勧めるべきは網羅的な再検査ではなく、次章で扱う具体的な変化のサインである。
15引き受ける範囲と、送り返す基準
前2章の数値から、施術者が実際に何をすべきかを組み立てる。ここは本書のなかで最も実務に近い章である。
15-1 引き受けてよい状態
医師による評価を受けており、器質疾患の除外がすでに行われていること。これが出発点である。第13章で見たとおり、その後の追跡で診断が変わる割合は0.5%(95%CI 0.01〜1.5)と報告されている[14]。施術者は、この0.5%を見張る側に立つ。
15-2 医療へ戻す判断の材料
本書が引用した文献は、鍼灸師向けの紹介基準を定めたものではない。したがって以下は、引用した知見から導ける範囲での整理であり、ガイドラインではない。
- 訴えの性質が変わったとき。強さの変動ではなく、種類・部位・時間帯のパターンが以前と異なる場合
- これまでになかった神経学的な所見が現れたとき
- 体重減少・発熱・夜間の症状など、機能性の枠組みでは説明しにくい所見が加わったとき
- 精神的な併存が疑われるとき。BDD・SSDは全般性不安症・パニック症・心的外傷後ストレス症・うつ病・双極スペクトラム症と有意に併存することが報告されている[2]
- SSD-12で測られる苦悩が高く、生活機能の障害が続いているとき。BDDのみの群では30日あたり4.7日の役割喪失が報告されている[2]
15-3 施術者の関わりが持つ重み
過敏性腸症候群の患者262人を対象に、プラセボ効果を3つの成分(評価と観察/治療的儀式/支持的な患者-施術者関係)に分解した無作為化比較試験がある。3週後に十分な症状緩和を報告した割合は、待機群28%、偽鍼のみの群44%、患者-施術者関係を温かさ・注意・自信で強化した群62%であり、傾向性の検定はp < 0.001であった[17]。著者らの結論は、非特異的効果が統計的にも臨床的にも意味のある結果を生みうること、そしてそのなかで最も頑健な成分は患者-施術者関係であることである[17]。
この試験は灸ではなく偽鍼を用いており、対象はIBSである(階層A)。ここから「灸が効く」とは言えない。言えるのは、施術という場面が持つ関係性の要素だけで、症状緩和の報告割合が28%から62%まで動きうるということである。この事実は第2巻で、灸の効果を読むときの基準線として繰り返し使う。
不定愁訴の患者にとって、施術室は「訴えを最後まで聞いてもらえる場所」であることが多い。それは効果の交絡因子であると同時に、施術者が意図的に扱える臨床資源でもある。ただし、それを灸そのものの効果として説明してはならない。両者を分けて語れることが、この領域の専門性である。
経過と未解決問題
施術の効果を判定するには、何もしなくても起きる変化の大きさを知っておく必要がある。そして、この分野に残っている空白を正確に言葉にする。
この部を読むと自然経過という基準線を持ったうえで、自院の成績を語れるようになる。
16放っておくとどうなるか
自然経過は、あらゆる効果判定の基準線である。この基準線が高いほど、施術の効果を証明することは難しくなる。
16-1 改善する人が多数派である
MUS・身体化障害・心気症の経過と予後因子を検討した系統的レビューでは、MUSに関する研究6件、心気症に関する研究6件、簡略化身体化に関する研究1件が組み入れられた[16]。
その結果、MUSの患者のおよそ50〜75%が改善し、10〜30%が悪化すると報告されている。心気症では回復率は30〜50%であった[16]。
16-2 予後を左右するもの
ベースラインの身体症状の数が経過に影響するという一定の証拠が得られ、ベースラインの重症度も予後に影響するとされた。一方、不安・抑うつの併存は心気症の経過を予測しないと報告されている[16]。
著者らは、研究数が限られ不均一性が高いため、予後因子を同定する厳密な実証的証拠は不足していると明記している。確かなのは、ベースラインでより重症であることがより悪い転帰と関連することのみである[16]。
対照群を置かずに施術前後を比べれば、半数以上で改善が観察されるのは当然である。「10人施術して7人良くなった」は、自然経過の報告値(50〜75%改善)の範囲内にある[16]。自院の成績を語るときは、この基準線を先に置く。それをしない成績報告は、施術者自身を誤らせる。
17この分野で分かっていないこと
空白を正確に言えることは、埋まっていると誤解しているよりも臨床的に安全である。本書の調査範囲で確認できた空白を列挙する。
17-1 灸の側の空白
DSM-5の身体症状症またはICD-11の身体的苦痛症の診断基準で選ばれた患者を対象に、灸単独を偽灸と比較した無作為化比較試験は、今回の調査範囲では見出せなかった。
参考として、身体症状症に対する鍼については系統的レビューとメタ解析が存在する。8つのデータベースから9,526本を検索して組み入れられたのは5研究・376人にとどまり、その内容も鍼をパロキセチンまたはデュロキセチンに上乗せする設計が中心であった。4週時点のHAMA得点変化の平均差は−1.94(95%CI −3.71〜−0.17、p = 0.03)、6〜8週では−3.17(95%CI −6.38〜0.04、p = 0.05)であり、痛みの数値評価尺度では2週・4週・6〜8週のいずれも有意差はなかった。すべての研究にバイアスの懸念または高いバイアスリスクがあり、GRADEによる確実性はすべて低または非常に低と判定された[18]。
17-2 測定の側の空白
SSS-8とSSD-12を組み合わせても、SSDの検出における感度は69%、特異度は70%にとどまる[10]。この集団を過不足なく同定する簡便な道具は、今のところ存在しない。
日本語圏では、不定愁訴に対する鍼灸で対照群を置いた比較試験を、今回の調査範囲では見出せなかった。国際的な尺度(SSS-8・SSD-12・PHQ-15)を用いて日本の鍼灸受療者を測った研究も見出せなかった。
17-3 機序の側の空白
温度覚が予測符号化で処理されることは健常者で示されている[6]。しかし、灸の温熱刺激が身体症状についての予測を更新するかどうかを検証した研究は、今回の調査範囲では見出せなかった。第4章から第6章で述べた枠組みは、灸の作用機序の説明ではなく、今後検証されるべき仮説である。
| 空白 | 現在あるもの |
|---|---|
| SSD/BDD患者への灸の偽対照試験 | 見出せなかった |
| SSD患者への鍼の試験 | 5研究376人・確実性は低〜非常に低[18] |
| 日本語圏の対照群つき試験 | 見出せなかった(症例集積のみ[11][12]) |
| 灸による予測更新の検証 | 見出せなかった |
| 簡便で高精度な同定手段 | 感度69%・特異度70%が現時点の到達点[10] |
これらの空白は、施術をしてはいけない理由ではない。効果を断定してはいけない理由である。患者に説明するときは「この症状に灸がどれだけ効くかを直接調べた研究は見つかっていません。似た症状を扱った研究はありますが、質は高くありません。そのうえで、あなたの場合に何をどう測って判断するかを決めましょう」と言える。これは弱い説明ではなく、正確な説明である。
理解度チェック
全12問。選択するとその場で正誤と解説が出ます。各設問は設問文だけで解ける形にしてあり、前提となる研究の条件は設問文の中に書いてあります。自己確認のための演習であり、資格や技能を証明するものではありません。
DSM-5の身体症状症(SSD)とICD-11の身体的苦痛症(BDD)が、それ以前の身体表現性障害から変更した最も大きな点はどれか。
旧来の身体表現性障害は器質的説明の不在を診断の柱に置いていたが、これは検査技術で診断が動くこと、患者に否定的な含意が伝わることの2点で弱点があった。SSDとBDDはいずれもこの柱を外し、症状への思考・感情・行動と機能障害の側に基準を移している。A・B・Dはいずれもこの改訂の要点ではない。根拠:第1章・第2章/[2]
1990年から2012年に実施された32研究・70,085人を統合したメタ解析で、プライマリケア受診者における身体表現性障害(DSM/ICD基準)の点有病率として報告された値はどれか。
報告値は26.2%(95%CI 19.1〜33.3、I²=98%)で、質の高い研究に限ると34.8%であった。Aは一般住民におけるBDDの点有病率、Cは同じ研究における「MUSが1つ以上」の12か月有病率、Dは別の研究で報告された偽鍼と関係性強化を組み合わせた群の症状緩和割合であり、いずれも本問の対象ではない。根拠:第3章/[1]
同じプライマリケアのメタ解析で、身体化障害の有病率はDSM-IV基準で0.8%、ICD-10基準で4.7%、質問票による判定で12.8%と報告された。この3つの数値の差から最も適切に言えることはどれか。
同一のレビューが同じ疾患概念について、判定手段だけを変えて算出した3つの値である。したがって差は判定手段に由来する。Aは年代の比較ではないため言えない。Bは質問票の値が大きいことを精度の高さと取り違えている。Cは国別の比較を行った結果ではない。根拠:第3章/[1]
香港・フィリピン・カタールの一般住民18,105人を対象とした調査で、併存疾患を調整した過去30日間の役割喪失日数は、BDDのみの群で4.7日、SSDのみの群で3.1日と報告された(p<0.001)。この結果から言えることはどれか。
役割喪失日数は生活機能の障害の指標であり、調整後もBDD群のほうが多かった。Bは有病率の話で、実際にはBDD 2.0%・SSD 3.5%とSSDのほうが高い。Cはp<0.001と報告されているため誤り。Dは治療反応を測った研究ではない。根拠:第2章/[2]
脳を能動的な推論装置とみなす予測処理モデルでは、持続する身体症状はどのように記述されるか。
このモデルでは、脳は予測と感覚入力の差(予測誤差)を最小化しようとする装置とみなされ、持続する身体症状は「推論の失敗」として位置づけられる。期待は症状が生じた後の増幅要因としてだけでなく、症状知覚の成立そのものに関与する。A・B・Dはこのモデルの記述ではない。根拠:第4章/[3]
無害な温刺激と冷刺激を皮膚上に交互に並べて同時に与えると灼けるような痛みが生じる(サーマルグリル錯覚)。この現象が臨床的に示していることはどれか。
与えられているのはいずれも無害な温度であり、組織は損傷していない。それでも痛みが生じる。Aは前提と矛盾する。Cはこの錯覚が実験的に再現される現象であることと合わない。Dは温度覚を内受容感覚の入口とみなす記述と逆である。根拠:第6章/[6][7]
ドイツの一般住民2,510人を対象にSSS-8を検証した研究では、重症度区分が1段階上がるごとに医療機関の受診回数がどう変化すると報告されたか。
報告値は53%増加(95%CI 44〜63)である。Bの12%は同研究における医療利用との関連を示す発生率比1.12を割合として誤読したもの、Cの24%は一般的健康状態との相関係数−0.24の誤読であり、いずれも別の指標の値である。根拠:第8章/[9]
心身医療の外来を受診した372人で、質問票による身体症状症の検出精度を調べた研究がある。この研究が示した最も重要な限界はどれか。
最適な組み合わせ閾値でも感度69%・特異度70%であり、著者らもこれを診断ではなく「リスクのある人を同定する手段」と位置づけている。Bは対象に男性31.2%が含まれており誤り。Cは診断面接を基準として比較した研究であるため誤り。Dは報告されていない。根拠:第9章/[10]
年8回以上受診する医学的に説明されない症状をもつ成人80名に、五行鍼灸を12回以上加えた無作為化比較試験では、26週時点の主要評価項目の群間差は−0.6(p=0.05)だったが、欠測値を補完すると−0.4(p=0.12)になった。この結果の読み方として適切なものはどれか。
解析方法を変えるだけで有意性が失われる結果は頑健とは言えない。Aは感度分析の目的を否定するもの。Bは補完後にp=0.12となる事実と整合しない。Dは差の符号が介入群の改善を示していることと矛盾する。なおこの試験の対照は待機群であり、偽鍼ではない点にも注意する。根拠:第11章/[13]
機能性身体症状と最初に診断された成人で、後に器質疾患が判明した割合は、診断評価研究では8.8%、自然経過を追った追跡研究では0.5%と報告されている。この2つの値の差の説明として適切なものはどれか。
診断評価研究は「改めて系統的に調べ直したときに変わる割合」、追跡研究は「通常の経過のなかで後に判明する割合」を測っており、測定している場面が違う。A・C・Dはいずれも原著が述べている説明ではない。なお著者らは、特定の身体疾患が系統的に見落とされている様子はなかったとしている。根拠:第13章/[14]
医学的に説明されない症状をもつ患者の自然経過について、系統的レビューが報告した改善と悪化の割合はどれか。
報告値は改善50〜75%、悪化10〜30%である。無処置でも半数以上が改善するため、対照群のない前後比較で改善が観察されても施術の効果とは言えない。A・B・Cはいずれも報告値と一致しない。根拠:第16章/[16]
身体症状症・身体的苦痛症と灸の関係について、現時点で定量的なデータが存在しないのはどれか。
診断基準で選ばれた患者に灸単独を偽灸と比較した試験は、今回の調査範囲では見出せなかった。Bは5研究376人の系統的レビューが存在する(ただし確実性は低〜非常に低)。Cは3地域18,105人の調査で報告されている。Dは一般住民2,510人の検証で設定されている。根拠:第17章/[18]
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本書の数値はすべて原著論文の報告値である。編者が計算・換算した値は載せていない。割合・信頼区間・p値は原著の表記をそのまま用い、丸めていない。日本語文献の記述は抄録本文から採り、二次資料からの孫引きはしていない。本文で扱った知見の確実性は、章ごとにエビデンス階層(A〜E)で明示した。第1版・2026年9月。